不幸な鴉の話2 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 ──(夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉の獨白)
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 ──(御天守の上空を翔ふ現實の鴉の獨白) 斯うした、迷宮を探るに似たわしの夢は、軈てのことに、夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の烏の物語ともなつたであらう。だが、此のやうに際涯も無い摩訶不可思議な夢が何時如何にして綻びたものか、不圖我に返つたわしは、相も變らず此の城の御殿の奥まつた寢所で、今やうやうに深い眠りから自然(ひとりで)に醒め果てゝゐるのであつた。そして、何者の惡戱であつたか、それとも何處からと無く忍び込んだ涼しげな今宵の夜氣の仕業であつたか、此の殿中の暗闇(くらやみ)を照らす可き燈火(ともしび)は盡く何時のまにやら吹き消されてあつたが、幾重にも開け放たれた襖々(ふすまふすま)の敷居に仕切られた數々(かずかず)の大廣間を距て、遠く庭先の石崖の上に肱を曲げた老松逞ましい梢の眞下から、今しも杳かな湖水の水涯を離れようとする滿月の光が、早瀨のやうにどツとばかり一面に溢れてわしの枕元まで流れ込んでゐた。わしは狂ほしげに叫んだのぢや。「何者ぢや、燈火(ともしび)を消したのは、そして襖々を開け放したのは。」わしの甲走つた聲が、怪しい戰慄を帶んで、森閑とした殿中の寂寞を其の隅々までも裂ん突いた。だが、燈火(ともしび)の盡く消え失せた殿中は、恰も死に絕えたやうに寂然(ひつそり)として、敢て答ふる宿直(とのゐ)の者の氣配とて無く、聞えるものは、徒らに此の宏大な殿中の部屋部屋の壁や天井に陰々と鳴り渡る我が聲の谺(こだま)のみであつた。わしは幾度か近習の名を繰り返したのち、もう一度叫んだのぢや。「これ、者共、何故返答致さぬのぢや。水を持て。早う水を持てと申すに。わしは喉が渇いてならぬのぢや。水ぢや。水ぢや。」猶ほ應ずる者の無いのを知つた時わしの心は忽ち言ひやうもない怯怖の底に、譬へば夕風が弄ぶる葦の葉のやうにぶるぶると震へた。そして、其の暫時の後、村正の銘有る枕刀を手にしたわしの姿は、(此の御殿の外側に沿ふ)夢のやうに曲りくねつた廻廊に現れ、其の鶯張りを忍びかに踏みしめ乍ら、しづしづと御殿の裏手へと辿つて往つたのぢや。

 

※ 「……」パラグラフは原文では( の獨白)に直接続いていますが、うまく表示できず。

※「裂ん突いた」→多分「突ん裂いた」

 

 不幸な鴉の話 3

 

稲垣足穂の周辺 目次

不幸な鴉の話 1 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 そゝり立つ夏雲の峯を背に負ふた嚴(いか)めしい天守樓の上半身が、鬱蒼とした老松の綠靑(ろくしやう)いろの梢の上に、琥珀いろの天日の光に沐浴し乍ら、恰も世にも巨大な鎧を据えたやうに、魔の如く無邊の天空に懸つてゐた。灰いろの石崖が城を包んだ森をば圍み、一面に煌めく飴いろの陽炎(かげろふ)を其の腹に搖り乍ら、ひたひたと打ち寄せる紺靑(こんじやう)の湖水の浪に、絕え間無く其の苔蒸した裾を洗はれてゐた。又、穏かな湖水の浪は、此の城と其の背にそゝり立つ夏雲の峯との投影を其の眩しい水面に黑々と陰氣に映して、是れも亦絕え間無く手繰り寄せ、たぐり返してゐた。斯やうな眞晝、必ず毎日のやうに、何處からと無く一羽の鴉が墨染めの翼を擴げて翔(ま)ひ來り、此の天守樓の空闊とした上空に、幾重にも緩かな螺線を畫き乍ら、何事か怨めしげに泣き叫び、叫び續けてゐた。其の呪はしい啼き聲が、此の城に棲む大勢の靑侍達の午睡の夢に、譬へば、此の鴉自身の兩の翼のやうに暗い蔭影を投げ落したとしても、其の啼き聲が如何いふ意味であるかを知るものは、恐らく、此の城の好事な城主がいつの日からか登庸した、あの醜い隻眼を靑々と光らせ、三日月のやうに猫背を曲げた妖術師(やうじゆつつかひ)だけであつたに相違ない。鴉は哀しげに、憤ほろしく次のやうに掻き口説いてゐた。

 

 ──(御天守の上空に舞ふ現實の鴉の獨白)わしは今日も亦此處へ翔ふて來た。憤怒が今日も亦、わしを此處へ誘ふて來たのぢや。わしの昔の寵臣共も、現在わしが口にする「鴉の言葉」を解して呉れよう筈はなく、最早や何を言ふとも詮無いことであらうも知れぬが、とは申せ、此の妄執が如何(どう)して此の儘わしの胸から消え去り得ようぞ。何者ぢや、怪訝な法力でわしの姿を鴉に變じ、剰へ此の城と此の城に屬する領土とを奪ふたのは。元々わしは此の國の城主の身分に生れ、多くの武藝に秀でた家臣等に護られ、又、眉目(みめ)よい側女(そばめ)等にかしづかれてゐた。だが、それだのに或る夜のこと、わしは此の城の御殿の奥まつた寢所で深い眠りを貪り乍ら、まことに悲しい哀しい夢を見たのぢや。夢の中では我が身としたことが、此の姿を一羽の鴉に落してゐた。そして、わしは墨染めの翼を擴げて此の天守閣の上空を舞ひ乍ら、不思議なことに、次のやうに呟き始めたのであつた。

 

 ──(夢の中の鴉の獨白) わしは今日も亦、此處へ翔ふて來た。憤怒が今日も亦、わしを此處へ誘ふて來たのぢや。わしの昔の寵臣共も、現在わしが口にする「鴉の言葉」を解して呉れよう筈は無く、最早や何を言ふとも詮無いことであらうも知れぬが、とは申せ、此の妄執が如何して此の儘わしの胸から消え去り得ようぞ。何者ぢや、怪訝な法力でわしの姿を鴉に變じ、剰へ此の城と此の領土とを奪ふたのは。元々わしは此の城の城主の身分に生れ、多くの武藝に秀でた家臣等に護られ、又眉目美い側女等にかしづかれてゐた。だが、それだのに或る夜のこと、わしは此の城の御殿の奥まった寢所で深い眠りを貪り乍ら、まことに悲しい哀しい夢を見たのぢや。夢の中では我が身としたことが、此の姿を一羽の鴉に落してゐた。そして、わしは墨染めの翼を擴げて此の天守閣の上空を翔ひ乍ら、不思議なことに、次のやうに呟き始めたのであつた。

 

 ──(夢の中の鴉が城主であつた時に見た夢の中の鴉の獨白) わしは今日も亦、此處へ翔ふて來た。憤怒が今日も亦、わしを此處へ誘ふて來たのぢや。わしの昔の寵臣共も、現在わしが口にする「鴉の言葉」を解して呉れよう筈は無く、最早や何を言ふとも詮無いことであらうも知れぬが、とは申せ、此の妄執が如何して此の儘わしの胸から消え去り得ようぞ。何者ぢや、怪訝な法力でわしの姿を鴉に變じ、剰へ此の城と此の城に屬する領土とを奪ふたのは。元々わしは此の城の城主の身分に生れ、多くの武藝に秀でた家臣等に護られ、又、眉目美(みめよ)い側女等にかしづかれてゐた。だが、それだのに或る夜のこと、わしは此の城の御殿の奥まった寢所で、まことに悲しい哀しい夢を見たのぢや。夢の中では我が身としたことが、此の姿を一羽の鴉に落してゐた。そして、わしは墨染めの翼を擴げて此の天守閣の上空を翔ひ乍ら、不思議なことに、次のように呟き始めたのであつた。

 

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丸山清 秋と病める少年
丸山清 鷹
丸山清 ノツク・バツト型「のぞき器械」

 

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廣江ミチ子 Ⅲ(新庄祐子名義)  (モダニズム短歌)

 

        火山

・霧すくなく立つ かたむけよと我がてのひらをかへす めざめてあればまなかひにくもる歌よ

・入江ある島にすむわづかなる作法にいたいたしいまひるの朗誦の吃音である

・麻の袋 その低いトオン 老いたソリジア 濱名湖の靑い寫眞がうつる

・人工の印象 續いてかく ああ私の過酷な歳月 大きな嘴を砂につきさして答へた

・林檎の樹を尋ねず 酬いず この源泉といふ巷のひとなる

・秋に死ぬ ペルセフオネの町よ 藁の都 靑空の日ありき 師の旗

・キイの形態である 擾亂する わが講座 盲ひた

・もゆる風の帶 救ひのちまた 我が行為の布告のためにナルシスの鏡還る

・地の歸國を信じたい 一なるやかた 地の鹽に再びのせよ林檎を

・冬への欲求は終るかもしれぬ 習作ゆゑ よまれよ 汚泥にみちてある一篇の向日葵の中に


『新短歌 年刊歌集 1938年』より

 

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モダニズム短歌 目次

 

 

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神山裕一   (モダニズム短歌)

 

 

・帆柱の四五本が搖るる月夜空しろく羽ばたきて過ぐるものあり

・人或は眺めやるべし海原に夜ふけて赤く月ぞ照らせる

・夜はふけてやどかりうごく磯の岩娼家のあかりおよび來らず

・磯の空ときにひるがへる蝙蝠(かはほり)は月夜さやけみよく遊ぶらし

・部屋の灯もしろじろとふけぬ緣の下の蟋蟀のこゑを聞かされてゐる

・秋の蚊をたまさかは手にはたき落とし何も考えぬ夜がふけてゐつ

・匂ひなき枯木の肌や落葉焚くけむりまつはれり朝は幽かに

・庭木の梢(うれ)あらはに空をさすところ日のくれの風はくろくよどめり

・この朝は遠山に雪の光りしか時雨の街をゆきつつおもふ

・庭闇のかそけき雨をうちまもりこたへなき子の肩息づけり

・あたたかき冬の日つづくあぢきなさ白けし街の石だたみ踏む

・小驛のをぐらき燈(あかり)はや過ぎてなほこころひくくらきその驛  
     (夜の急行列車)

・枯原に夕かげ黄なりひそやかに卵うみをへし蟲は死ぬらむ

・杉木群立ちしづかなる山のなかに流るる水のありて音すも

・この山に音する水のながれゆくはてをおもへば國はひろしも

・冬眠りひそけきもののかくろへる野にしみわたりけさの雨ふる

・雲のかげをりをりすぐる枯野原日は照りながら時の空しさ

・夕空を枯野へ落ちし鳥のかげのきびしき線ぞ眼には殘れる

・筑紫の友死にし報せの來しときをわがむさぼりて飯(いひ)は食みゐつ

・疊這ふ夜蜘蛛をとらへ火に燒けりいのち絕えしものの臭くにほふも

・街路樹に音なくそそぐ夕しぐれ華やかにさむき燈もともりたり

・夕早く病院の窓にともる燈のまだ白々し街の寒けさ

・屋上に昇り來しとき日は照れりしまらくはわがひとりしあゆめる

・ふてぶてしく心のなかに居直りて生きむおもひもかつは寂しき

・一すぢに立ちくるこころ何にかけ生きむとするかただに迷へる

・山房の庭ひるしづかなり百日紅の花のひまより雲ひかり見ゆ

・俵負ひ登り來し人は地虫鳴く庭の夕をしづかにいこふ

・谷越えし向ふの山に猿のごとき啼きごゑせしか木木のしづけさ

・山の子が竹鐵砲をならす音木の間にひびき暮れゆかむとす

・山房の大き屋根くらく空を截り夕ほのかに雲流れゆく

・山に住む人らしづけし木木の間におもく沈みて藁屋暮れたる

・日はくれていづみに釜をあらふ音この山ふかく人の住むあり

・はるかなる山また山はくれそめぬここに生きゆく人らしづけき

・闇ふかく流るる渓の音澄めり落ちつぎにつついづちゆくらむ

・天地はくれしづみたり山深くまれに人間の笑ふは何ぞ

・山寺のラムプ小暗くもるる庭わづかに白し二もとの杉

 

 

 改造社版『新萬葉集』『香蘭選集』より

 

 

 

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春日 衣巻省三  (稲垣足穂の周辺)

 

    春日
          衣巻省三

猫と一室に戯れつくしても暮れなかつた
もう殺すよりほかない!
首をしめ終へると日はやつとくれた
死んだ猫はピクピク手を動かすのを止めない
春日は夜の中に僅かに生き殘つて手を動かしてゐる

     空腹

初めお腹の中に虹がたつてゐる──あした天氣になあれ
──やがてその空が暮れゆくと蛭が這ひ出してきた

 

    デメキン

  夜のレデイは、いづれも金魚のやうに生臭い。出目金(デメキン)が、どつかで近づきになつた女を思ひ出させた。

     美しい時代

  頂上は寳石のやうに輝いてゐた。もうそこは手がとゞきさうに近かつた。
 君は空からやつてきたのだつた。僕の額をふみながら。
 そこで君のあみあげの靴に挨拶をすると、目を鈴やかにして落ちて行つた。止まりたかつたのだが………。
 君は水晶のうつり香をもつた少年だつた。
 はるかの下で、君はいつまでも手をふつてゐた。
 ひと束の菫の花の湖と、空色のシヤボン玉の煙をたてたゼンマイ仕掛けの汽車と。
 君はそれらと共に消えた。僕はさびしく暮れのこる。
 僕たちは美しい世界に住んでゐた。

 

 

 

 『FANTASIA』第3輯 昭和5年(1930年)6月号

 

 

 衣巻省三 グウルモンにささぐ
衣巻省三 毀れた街

 

 

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毀れた街 衣巻省三  (稲垣足穂の周辺)

 

稲垣足穂と共に、佐藤春夫のところへ出入りしていた衣巻省三の詩です。

 

毀れた街

           衣巻省三
    小 鳥


胸の中に豆電氣がともつてゐる


    航 海


魚となつててのひらよ、艶やかな襟首の流れを下り、たぐひまれな
彼女の入江にまで、春日遲々とたゞよひゆかん。


    毀れた街


崩れた階段を薔薇が一輪をちて行く
蜥蜴めがアスフアルトの頗にのがれた

港の街のまひるどき
ボーツと汽笛が鳴る

 

    アイスクリーム


私の戀人よ
あまりながくほつておくとお行儀が惡くなる

 

    競 爭


言つてしまはぬうちにうなづいてしまふのです。で僕は終りに至つ
てその話の方向を換へて立ち上つた。それより早く、O君はシガー
の心までジイと吸ふてぽいとすてるともう歸るのかいと言ひました。

 

    


水泡を食べてゐる鮎よ
高貴なる藝術作品よ
夢を食べてる僕よ
君等風雅な食膳に上るのだが
實用品ではありません
何と世に俗な口の多い事だ

 

    宮庭のラツパ


シウル・レアリズム
プライドそれみずからの藝術

 

 

『FANTASIA』第2輯 昭和4年(1929年)12月号

 

 

 衣巻省三 グウルモンにささぐ
衣巻省三 春日

 

 

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ノック・バツト型「のぞき器械」 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 
見たところ野球用のバツトであるが、提げてみるとノツク・バツトよりもいつそう輕いから携帶には至つて便利なしろものである。實際は樫の棒に似せたボール紙の細工物であつて、その中腹から左右に一本づゝ都合(あはせて)二本のゴム管が垂れさがり、又、その内部の洞穴(ほらあな)には多くの操人形(あやつりにんぎよう)と數種の豆樂器との仕掛けが巧妙にほどこされてある。能書(のうがき)に示された活字に依ると、先づ左の手でバツトの中心とおぼしいあたりを握つて空中に支へ、次ぎに二本のゴム管のはしを醫者の聽診器のやうな具合に兩の耳の中へあてがひ、望遠鏡で天體を究めるまねをして此のバツトの内部を細い方から覗き込めばいいのだが、それと同時に右の手でハンドル(附屬品)をバツトの横に穿たれてある小さい穴にさし込んでカラカラと廻すことをも是非わすれてはいけない、と、これが使用法のあらましである。さてハンドルの廻轉と共にどんな光景がバツトの内部に覗かれるかといふに、例へばバツトの外側に「雪の護持院ヶ原」としるされてあるとすればこれは日活映畵「修羅八荒」の一節であつて、白雪皚々の二番原三番原を見はるかす極めてぞんざいなセツトが御城の高石垣の書割をもそなへて、レンズの作用で思ひのほかひろびろと御貴殿(あなたさま)の視界に展開されることに相違ない。そして其處には十數個の小指大の人形が忍びの覆面黑裝束でめいめい蟲針(むしばり)を白刄になぞらへて振りかざし、ひョこりひョこりと間斷なくおじぎの交換をくりかへしながら眞綿の積雪の上をどうどう巡(めぐ)りしてゐるに過ぎない。おじぎと共に手にしてゐる蟲針がせわしく上下に動くのであるが、つまりこれが亂刀飛雪護持院ヶ原の寒けき殺陣を模した演出である。中央にわだかまつて多勢の頭巾黄裝束にかこまれ獨樂(こま)のやうにクルリクルリと旋囘してゐる人形が五分月代に大髻といふ風體(つくり)から察して主役河部五郎の扮する殘香惠之介であるらしく、群を離れてぢツと兩腕をこまねいてゐるのが近頃物騒至極の神道無念流の先生陣場彌十郎、彼方の松の樹かげから三味線をかゝへた上半身をのぞかせてと見こう見してゐる鳥追ひ姿こそヒロイン江戸節お駒かと思はれる。いつ果てるともなく無變化無勝負のチヤンバラをつゞける操人形のあつけなさはさることながら、ハンドルをまわすにつれて二本のゴム管の中を通過して御貴殿(あなたさま)の耳へさゝやく此の立ち廻り劇の伴奏樂(ヂンタ)のあほらしさにはまた格別の趣きがないでもない。チンチキトントンチントントン、チントコチントコチントコトコ、卽ちひろめ屋のマーチであるが、これは二本のゴム管によつてのみ御貴殿(あなたさま)の耳へ運ばれるこそばゆいほどに極くかすかな演奏であるから、或ひはチンチキトントンと鳴く蟲がこのボール紙製バツトのなかに秘密に飼つてあつて、數日後には蟲が空腹のために死亡してしまひ再び伴奏樂(ヂンタ)を聞けないこととなるのではあるまいか、などと一應は不審を抱いてみるが當然であらう。だがこれこそ數種の豆樂器の必死の活動(はたらき)によつて釀されるシンフオニーであると心得て置くがいゝ。

最近に新宿驛前の緣日を歩いた人はこのノツク・バツト型「のぞき器械」を賣つてゐるもう六十に近いきさくで漂逸な爺さんを眼に止めたであらうが、頭がつるりと禿げおはせ頰鬚とあご髯とをきれいに剃り落した𤏐徳利型(かんどくりがた)の面相が鉈豆煙管(なたまめぎせる)をパクリとくわえてめくら縞の着物のゑりにさゝつてゐるありさまを見るにつけても、この人こそこの未來派的舊式玩具を賣るためにのみ生れて來たことに相違ない、などと私の如き劒劇フアンがつい懷しさに涙ぐましくなつてしまふ。
「おい、爺さん、阪妻はあるかい。阪妻は。」
「オーライ、無明地獄に人形師、えーとそれから幕末、亂鬪の巷、毒笑、こゝンとこのが素浪人。」
「多味太郎の千葉周作はどうだ。」
「あツ、旦那、そいつを未だ封切らねぇンで……。」
當分のうち宣傳のために破格大安賣りの一本二十錢のところを更に十二本揃へて一ダース一圓といふ徳川な買ひ方があり、場所は新宿驛前の戸塚停留所に寄つた大道であるから、若し御貴殿(あなたさま)が武蔵野館のくらやみの中で西洋映畵の石鹼の泡に食傷したなら、毒消しとして、又、寢ながら樂しむために二三本なり一ダースなりを求めるといゝ。(完)

 

 

 補遺──仔細に檢査してみると、バツトの腹に針の溝ほどの小穴が無數に穿たれてあるが、これは筒の内部の闇を照らすためのあかり取りの窓である。特製品といふのがある、一本七十錢、但し、これにはあかり取りの窓が穿たれてない、といふてもカラカラとハンドルを廻すと同時に内部に豆デンキがともるやうに裝置してあるから、それには及ばぬのである、尤も別に電池を求める必要があるけれど……。いろとりどりの色紙細工が豆デンキの光を浴びるから、興味深い照明作用をうかゞふことが出來る。消燈した寢室のくらやみで弄ぶに適當であるが、爺さんの店にはいつも二三本しか用意されてない。そして、この方は一向に賣れ行きがないさうだから、値切れば三四十錢にまけぬとも限るまい。又、もとより玩具ではあるが、野球選手がサツクの中へ實用のバツトと共にこのノツク・バツト型のぞき器械を忍ばせて出場し、自分の打撃順を待つてゐる暇に時々ハンドルを廻してみるのも乙であらう。

 

 

 

 第九次『新思潮』22号 昭和2年(1927年)2月

 

 

 丸山清 秋と病める少年
丸山清 鷹
丸山清 不幸な鴉の話 1

 

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