海生動物 2  遠藤忠剛 (稲垣足穂の周辺) 

 

 

        B
 私の母は生れた時、その嬰子(あかご)特有の赤い頭は公方柿のやうに尖り、またその眼は櫧子眼だつたと云ふ。出産祝ひに親類の畫家が蛸の繪を描いて送つて來たので、私の母の母は産褥(とこ)の中で齒がみして怒つたとか云ふ話。──

 

        C
 私はこの夏、八月三十一日、母の誕生日祝ひに間に合ふやうに旅行に行つてゐた西の涯から東へ山陽本線をがら空きの特急に乗つて飛ばしてゐた。──車中には私以外には白いヘルメツトを棚へ載せた眞白づくめの一人の紳士がゐた。直ぐに友達になつた。
《私は北海道から千嶋、樺太の方へ密獵に行くのが好きでしてね。……(水豺(あざらし)や膃肭臍を獲る痛快な話の後で──)一度蛸伐りをやりましたよ。馬鈴薯を盗みにくるのですよ。みんな連れ立つて手をつないでくるのです。人氣がすると海へ直ぐ滑つて逃げ込まれるやうに彼等はそのやつて來た砂の上をぬるぬるにして來るのです。私達はその砂の上へ新しい砂を撒いて容易(なかなか)には逃げられぬやうにして一發鐵砲を打つて見ました。周章ふためいて逃げ迷つてゐるを棒で毆り殺しました。……

 


        D
 母の誕生日に方々から來てゐる海水服のいとこ達の一群に銘々魚杈(もり)を持たして私はその先途になつて海へ魚を突きに行つてゐた。出入りの魚松に會ふ。
「ャァツ! これは大勢凄いお揃いで、──突きに行くんですか? 坊ちやん、しかし波戸先へ案内しちやいけませんぜ。向ふには化蛸がゐましてね、突きに行くと急に酒樽みたいに頭が大きくなるのがゐるんですからね。──

 

 

        E
「こいだけ澤山ゐりや出ても面白いよ。ねえ。
「たいて喰べるさ。
「あたし蛸のお化けが見たいわ。
「みんな行かうぜ。
 然し波戸先へ行つた時、眞蒼になつた。
 半裸體の女の水死人が上つてゐる。白い背中に紫色の大きな迹がある。一人の見物人が皆に敎へてくれる。
「なあにね。よくここにはあることでね。まさか私は化蛸のことなんか信じないが、──この女(ひと)は近頃裏の別莊へ來た人でね──今朝も一人で游いでるのを見たんだが──きつと黄貂魚(あかえひ)に刺されたのさ……

 

         F
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 彷徨へる海の貪婪者(どんらんしや)、赤鱏(あかえひ)の物語り。──

 たとひ小さな生存の爭鬪が絕え間なく隠されてゐたにしても海の中は神の造つた儘に美麗な平和が支配してゐた。吃驚(おどろく)ばかり美しい赤珊瑚の林の中に流れ行く靑い潮に乗つて貴族的な鯛のむれが赤金の鱗を眩暈(めくる)めくまで輝かして悠々と遊んでゐるのを潜水服きた男が思はず見とれてゐると、突然その背後へ茶褐色の凶惡な彼が躍りかかつてその劍(つるぎ)のやうな尾の鋭い梟毒の棘で潜水夫を一瞬にして殺してしまつた。そして彼はこの悲しい潜水夫を瑠璃いろ空とつないだ管(くだ)を嚙み切つて再び死の戸板の如くがばがばと靑い水を攪き立てて妖精(もののけ)のやうに游ぎ去つた。

 ……しめつぽい夜の匂ひが開いた窓から忍び込んで來てもその窓に凭れて薄紫に暮れて行く沖を見つめて待つ若く美しい新妻の所へは哀しい潜水夫の姿は二度ともう歸らなかつた。

 紫の花をつけた濱蜿豆に圍まれて、靑い海を濶々(ひろびろ)と眺める高い海角の上に、村一番に美しく村一番に働き手であつた若い彼は白いペンキ塗りの小さなお伽噺のやうな新屋を建てゝ昨夜その可愛い戀人と結婚したのではあつたが──そして今朝その新妻の綺麗な小さい足を飾るために深い海へ赤い心の珊瑚をとりに出たのではあつた。
 海角の上の、その家のまはりの靑綠の夏草はやがて黄色くなつて淋しく顫へはじめ、そして蟋蟀がその薄い羽を哀しく擦り合はし出すと戀しい男の消入つた海の色は漸く眞夏の激しい紺碧から空色にうすれた。──麓の村では老媼たちは小春日和に絲車を𢌞し乍ら無花果を喰べてゐる若い娘たちに、
《綺麗なステモンさんはきつと海の白い人魚に魅入られたに違ひない。》
 と風評(うわさ)し始めた。黑い喪の悲しい新妻は靑い睫を泪でぬらして、身も心も吸ひ込むやうなあを空を見詰めて(マリアさま……マリアさま)と祈り續けたが美しい秘色(ひそく)の空には秋の赤い蜻蛉が無數に飛び𢌞つてゐるだけだつた。──
 麗らかな眞圓(まんまる)い金色の月がすずしい風に吹かれて紫の海の涯からしづしづと登り出した時彼女はその家の前の絕壁から底の見えるほど清澄な、靜かな夕暮れの海へ悲しい身を躍らしたのである。!!突然、彷徨する貪婪者、赤鱏がその底から浮び上つて、落ちて來る彼女のからだが水につくかつかぬ一瞬時にその劍のやうな恐ろしい尾を彼女の眞白い腹に突き刺したまま、女に纏ひついて巧みに海底へ深く沈んでしまつた!!

 

 ※《 は本来、二重 ( なのですが、それを作ると文の位置がずれるので、《 に換えています。

 

海生動物3へ続く

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

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