海生動物 3  遠藤忠剛 (稲垣足穂の周辺)

 

 我等の悲しき暴君は己れにも他(ひと)にも分らぬ恐ろしい孤獨の悲惱を抱いてひとり海に生れながら、海に棲む者の群を遁れてその力のままに有限の海に無限無終の慘忍三昧に耽つたのである。魚を、魚を、限りなき魚を幾代となく彼の種族は悲しく貪り啖ひ飽くこと知らず嚙み碎いて來た。彼に殺された魚だけでも茫莫たる大洋の海面にその腐つた腹を一杯に浮べたが、その體は腐つては靑い氣體になつて立ち上りそのためにただ空はますます瑠璃碧巖に美しく澄み恒るばかりであつた。
 《空が空なら己も己だ》恐ろしい彼は執拗く海を彷徨ひ𢌞つて殺戮した。そして終に今までの海の支配者たる鱶と衝突した。二人の爭鬪は深海の、太古の寂莫の中に、音もなく物凄く生死を賭して行はれたのである。鱶はその恐ろしい牙(は)で彼の柔いからだをづたづたに切りまくつた。その恐ろしい惡魔の口を搖曳する屍衣の様にひらひらと巧みに遁れては、彼はその毒刄の如き尾を突き立てた。
 どちらも瀕死になつてしまつた時、海の貪婪者は得體の知れぬ自分の孤獨の心を稻妻のやうに見て己れのために再び恐ろしい力を振ひ起して鱶の體へその尾の鋭い棘を突きさした。──終に斯くしてこの音のない寂莫たる格鬪の結果鱶はその腹を突き破られ刳りちらされて棒立ちになつて流れてしまつた。

 流石に赤鱏も瀕死の重傷を負うて深い洞穴に幾日も幾日も寢てゐなければならなかつた。
 深い眠りを寢た。そして悲しい淋しい彼は絕えず美しい壯麗な夢に耽つた。この空幻の郷(さと)を戀ふ哀れな妖怪は夜ふかき閻羅の海底にあつて輝かしい都を幻想してはみたが、時々刻々推移する彼の心には一つとして定まつた都の姿は出來なかつた。しかしその不思議な孤獨の心を蠱惑するほど輝かしい都がたとひ夢の中にでも作られるのだらうか?己れ以外の何物にも方向を持たぬ悲しい心!  ? さればその孤獨の神秘を何で開かう? 海の貪婪者の永劫にわたる苦しみ! しかしそこに湧くその素晴しい力は?!
 彼の體は元へ癒えた。再び彼は永劫に倦まざる逆殺の旅へ凄じい勢で狂奔し去つた。
 再び海の生物には恐ろしい寒慄が復活した。──それでも心の支配者であるOTOHIMEの住む龍宮だけは依然として秘(みそ)かな平和を壟斷してゐた。
 美しい龍宮は深い水の底にあつて、靑い水の中にその宮殿の古い甃は苔に覆はれたやうに靑かつた。黎黑の圓柱の所どころから眞珠の白い泡が細 幾條も立ち上がつてゐるのが、その靑い龍宮を取り圍んだ廣い庭に密生した柳の樹の間に恰も宮殿全體が白い湯氣を上げてゐる様に──冷たい水の底にあつてここだけは暖く樂しいやうに見えたのである。……全くこの龍宮は何千年の往昔から樂しく海の心を支配しては居た!!

 

 

 ※「執拗く」の「執」は原文では手偏の「執」

 ※「泡が細 幾條」は、手元のテクストが1マス空きになっていました。多分「細く」

 海生動物4へ続く

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

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