海生動物 4  遠藤忠剛  (稲垣足穂の周辺)

 

 ……薫の高い白檀の林の生えた龍宮の門前の庭をめぐつて外界と境をして小川が流れてゐる。そこには黄金の橋が懸つてはゐるが下は溷(どぶ)の流れである。半月形をしたその橋の黄金の階段に腰をかけた二人の侏儒が、柔かな小人革の赤靴をはいた兩足をぶらぶら動かしてゐる。海底の暗がりへまるい光の輪をなげる金色の龕燈を銘々側に置いてゐる。
「わしは背中の腫物(もの)が今宵、特別にかゆいのじや。
「わしも又そうじや。じやがなんぼ掻いても、初まらぬことじや。
「わしはかゆい。かゆい。
「朝になるまで待ちやれ。朝日にうみも消えやう。夜が明けるまで賭けて一つ骨牌を遊ばぬか?
「わしはかゆい。かゆい。もうかゆうて耐らぬのじや。
「我慢のない奴じや。猫を水甕へ入れて見せようか。それとも赤い百合に火を點けて見ようか?
 その時悲しい顔した二人の下の黑い溷(どぶ)の流れに、──(靑い海の底では汚い溷さへ綺麗に見える!)──OTOHIMEの化粧室から桃色の捨水が一すじ交つて流れて來た。!!突如二人の側の龕燈の光が搖れた。黑い影が二人の頭上を過ぎたかと思ふと後の白檀の林中で凄じい生木の折れる音がした。──貪婪者が狼戾(らうれい)としてこの都を襲つたのである。忽ち奥で女官達の悲鳴が起つた。一分──二分──三分──そして妖嬌(まよはし)の龍宮(セラーリオ)の深所に於ては、凡ての女官が殺された後に、崇高(たか)くおほろかに、夢よりも美しかつたOTOHIMEは淫佚殘忍な悲しい彼のために、悲しき裸體のまま、化粧室から引きづり出され世にも恐ろしい姦され方をなされてからその血みどろの體を、化粧の後で桃色の美しい柔かな露(あら)はなままにお凭れになる筈だつた濱床(クツシヨン)へ投げつけられて死んでしまはれたのである。
 ……龍宮(セラーリオ)は靜まりかへつた。あらゆるものをその魅惑に醉はした「彼女」のからだは眞紅な血の花を咲かして滅烈に粉韲された寂莫(じやくまく)たる部屋の裡に一人倒れてをられた。その墓場の中にたゞ一つ壊されずに殘つた丈の高い香爐からは靜かに麝香の薫りが彼女の引きむしられた右の乳のほとりにたゆたうてゐたのであつた。──

 彷徨へる悲しき海の貪婪者はかくして一切を殺戮して行つた。終には彼のために海は滅んだ。その力もその心もこめて共に滅亡したのである。彼は支配した!! 海を支配し得た喜びは彼の眞實の心に毫も感じなかつた。赤鱏はその爛々たる眼を彼の内部(もう外部への必要はない。)へ輝かして虛無(むなしく)なつた海を游いでゐた。ある日彼の戰鬪欲を更に永遠に外部にも新しくそそつたのは海以外の世界が海へも浸潤してゐることをほのかに感知したことだつた。ああ海以外にまだ世界がある。しかし彼は海で生れた動物である。海から外へ出ることは出來ない。──彼には羽がない。──肺臟がない。
 ある深夜、大洋の眞中に大暴風雨が雷火を持つて荒れ狂つた。電光はせんせんと黯淡たる天空から凄寥たる海底へまでも靑い恐龍を幾千となく疾らした。その靑光に照らされて海底から巨大な赤鱏が浮かんで來た。深夜に白馬を躍らす暗黑の洋上へ、篠突く雨の中へ彼は現れ出た。
 匐然(くわうぜん)たる洋上の雷鳴と共に突然赤鱏の體は、(海中へ下りた不幸な)パラシウトのやうに眞皎な波濤の中へなみを蹴つて大きく展ろがつた。
 そして海水をからだから瀧のやうに振り落し乍ら空中へ浮び上つた。雷が天も海も摧けと鳴る。電火が空を躍り狂ふ!!彼は電雲の中に眞赤な飛行機が停止してゐるのを見た。彼はそれへ眞黑な水で黑くなつた惡魔(まがつみ)の岩茸のやうに、死の巨大な外衣(かつぎ)のやうに覆ひかかつた。
 この大暴風雨の中を眞赤な飛行機は眞紅に燃えながら巨大な惡魔の赤鱏をのせて、雷電にその肉を燬きただし乍ら、臭氣粉々として暗黒の天空を突破して行つたのである。──

 悲しい赤鱏の話ここに終る。

 

 

 ※原文全体にいくつかの単語に傍点のあるものがありましたがここでは省略しています。

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

遠藤忠剛書誌
「TOMRVON-その昔NO.313の渡守、細いリボンの英雄を悲しますために-」( 雑誌『朱門』大正14年11月)
「海生動物」(雑誌『文藝時代』大正15年8月)
「悲しきどろぼう」( 雑誌『ドノゴトンカ』第1巻1号 昭和3年5月)
「コルボの三人-神戸市に捧ぐる一つのReminiscence-」( 雑誌『ドノゴトンカ』第1巻2~4号 昭和3年6~8月)
「ランプで行く(1)」( 雑誌『ドノゴトンカ』第2巻第9号 昭和4年12月)

 

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