不幸な鴉の話 3 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 怪しげな天守樓の上半身が、暗黑の松松に深々と腰をば埋めて、默々として夢魔のやうに、又、幻影のやうに夜半の天空を摩してゐた。そして、此の高樓の半面は、今しも夕立のやうに烈しく降り注ぐ月光に洗はれて、恰も羽擊(はばた)くやうな白々しさに晝を欺き、又、他の半面は、恰も其處だけが取り殘された夜更けであつたかのやうに文目も分たず黑々と蹲り、煌く湖水の浪に其の息づく如き朧ろな影を映してゐた。復しても不思議なことに、此の天守樓の窓々は四面盡く開け放たれてあつたものと見え、其の證據には、湖水の浪に搖られる此の塔の烏羽玉いろの投影にも、窓に當る箇所だけが凄じい白銀(しろがね)いろ月氣に貫かれて、魚鱗のやうな波の肌をば鮮かに躍らしてゐた。御殿の裏手にふらふらと差し掛かつた城主は、廻廊の欄干(おばしま)に身を寄せ乍ら不圖(ふと)此の影に眼を止めてゐた。すると、湖水の浪に映つた此の天守樓の影の(月光にくり拔かれた)明るい窓のところに、突然、暗い左右の柱の蔭から現れた二つの人影が、言葉無き影芝居を演じ始めた。一つの影は家中の若侍と覺しく、弓のやうにそり打つた太刀を佩き、もう一つの影は御女中らしく髪を御殿風に結んでゐた。ぢつと湖水の水面を見つめ乍ら、抑へやうも無い瞋恚の炎をむらむらと胸に燃やした城主は、忽ち、夢のやうに浮いた廻廊の欄干から身を飜すい早いか、蹣跚として淺間しい素足のまゝ、庭先の樹間を縫ふて蹌(よろ)ばひ走つた。「おのれ、不義者奴等其處動くなよ。覺悟を致せよ。」心荒びた城主が此のやうに叫び乍ら、湖水の浪に搖らめく御天守の影を石崖の上から睨まへ下ろした其の刹那、何者とも知れぬ不思議な力が、城主の背をば突然どんと突き飛ばした。足場を失つた城主は惶(あはたゞ)しくも、恰も鳥が飛び立つ前の身構へのやうに、兩の腕を左右に擴げて二三度空しく羽擊(はばた)いて見たものの、到底それが五體を空間に支へる術(すべ)ともならず、今は止むなく觀念の眼を堅く閉ぢ、譬へば梢を離れ病葉(わくらば)のやうに、峙立つ石崖の上から湖水の浪間へと吸ひ落されて往つた。

 ──(烏の獨白) だが、まことに永い幾刻かゞ過ぎ去つたにも關らず、わしは未だに我が身が水中に沒入するけたたましい水音を聞かなかつたが故に、不圖、恐る懼る半眼を見開いてみたところ、訝しくも、今の今まで月光の啜り泣く夜更けであつた筈の四邊は、すでに眩い天日の光が一面に美しい黄金を溶いて漲り溢れた眞晝間であつたのぢや。そして、自分の五體を恰も天空に迷ふ雪片のやうに如何にも輕やかに感じたわしは、猶ほ一層大きく兩眼を見開いた時に、驚いたことには吾が身は此の湖水の浪の面と擦れずれに、其の浪の眞上を行衛も知られず翔ひ漂ふてをり、しかも、水面に映つた我が姿は、左右に擴げた兩の腕こそ二枚の墨染の翼と變じ、又、此の面差しは尖り細つて漆黑の嘴と化し、すでに一羽の醜い鴉に落ちてゐるのを知つた。遠く杳かに振りさけ見れば、我が棲み古した城廓の横顔は宛然(さながら)箱庭のやうに小さく低く、波浪の蔭に見えつ隠れつ霞んでゐた。──

 烏は此處で暫時沈默を守つた後、再び言葉を續けてゆく。

 ──(鴉の獨白) 此の三界にわし程罪業の深いものが二人とあらうか。あの夜、わしを石崖から突き落した曲者の正體さへも、それが何者であつたかは今以つてわしには皆目頷けぬのぢや。それさへしかと判然致さば、今とて風を割り老松の梢を掠めてあの御天守の廣庭へ翔ひくだり、曲者の頸を此の嘴で八ツ裂きに破るは易からうものを。だが何事も夢ぢや。夢でなければ幻であらう。あの夜、御殿の寢所で見た夢では、わしは確かに一羽の鴉に過ぎなかつた。ちやうど今の我が身のやうに。扨て、其の夢の中の鴉も亦、嘗て此の城の城主であつた時に、鴉になつた夢をば見たと言ふ。わしの夢は、恰もあの御殿の幾重にも襖々を距てた奥行きのやうに、夢の向ふに夢をば見、其のまた夢の彼方に更にもう一つ夢をば作り、夢の中の夢の中の夢の中にも夢が生れた。わしは幾重の夢から醒め果てたものか。或ひは、未だ夢から醒め足らぬのではなからうか。だが、假にさうであるとしたところで、此の幾重にも垂れ籠めた夢の帳が盡く切り落された曉に、將してわしは此の城の城主であり得るであらうか。それとも又、生れ乍らの鴉であつたことに氣付かねばならぬのであらうか。假令、何事も一羽の鴉が見耽つた儚い鴉であつたとしても、若しもあの曲者さへ現れて來なかつたならば、わしはあの榮耀榮華の盡きぬ御殿で、何時までも氣儘勝手な城主であり得たであらうものを。わしはむしやうにあの曲者が憎いばかりでなく、今では、此の湖水に此の城が斯うして影を沈めてゐることさへも、何となう腹立たしくてならぬのぢや。───

 

※「飜すい早いか」→多分「飜すが早いか」

 

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