香炉の煙  稲垣足穂  (稲垣足穂の周辺) モダニズム

香炉の煙  

         稲垣足穂

 

 李白と七星


 或る晩、李白が北斗七星をかぞへると、一つ足りなかつた。それが自分の筆入のなかに入つてゐるやうな氣がしたので、その竹筒を何回もふつてみたが、星は出なかつた。どうもをかしいと思つて、もう一度かぞへてみると、こんどは七つにきつちり合つてゐた。それで、李白は、それたぶん、雁が自分と星の間をさえ切つたせいだらうと人に語つた。

 

 

東坡と春

 

 東坡が春の野を歩いてゐると、むかふに紅い花らしいものがあつた。何だらうとよく見るとそれは花であつた。しばらく行くと、こんどは靑い柳のやうなものが風にゆれてゐた。いぶかしみながら近づくと柳であつた。で、東坡は声をあげてうたつた。
「柳は綠、花は紅……」
 すると、霞がそれを聞いてハハハと笑つた。

 

 

 

黄帝と珠


 黄帝は一日赤水の北に遊び、崑崙の山に登つて南望して下りた。
 この時、黄帝は首にかけた大切な珠を落してしまつた。宮殿に歸つた黄帝は、部下の無象をよび出してその行方を探す事を命じた。無象はおほせかしこまつて、崑崙山におもむき、険しい谷間にころがつてゐた珠を見つけて、喜び勇んではせもどつた。
 大臣や將軍が星のやうに居流れたまへを、得意滿面にのぼつた無象は、珠を入れた箱をかゝへて黄帝のまへに進んで、その蓋をあけた。珠のかはりに大きな鳥がとび出して、羽音高く欄間くゞつて出て行つた。
 無象とその他の家來があつけに取られた時、黄帝は快よげにカラカラと笑つた。なぜなら、黄帝は人も知る哲学者だつたからである。

 

 

盗跖と月

 

盗跖が或る時月を盗みとらうといふ考へを起した。そして夜になつた時、三千の部下をつれて崑崙山の方へ出かけて行つた。
 ところが、明方になつて、彼は大へん打ち沈んで歸つて來た。そのわけは、流石の盗跖もこの寶物を盗むためには、暗い夜を選ぶ必要があつた。しかしその闇のために、肝心の月が見つからなかつたと云ふのである。あの孔子を走らし諸侯をふるはした盗跖の只一つの失敗とは即ちこれである。

 

 

老子と花瓣


 夜中に眼をさました老子は、ふと夕ぐれに城趾をとほつた時、金色の花瓣が落ちてゐたのを思ひ出した。
 老子は起きて城趾へ出かけた。しかしそこには何もなく、只、見たばかりの黄いろい月にてらされた欄干の影が長くのびてゐるだけであつた。たしかこのへんにあつたのだが……と老子は、もう一ぺんガランとした石甃の上をさがしてみた。が、やはり見つからない。老子はなぜあの時ひろはなかつたのだらうと思つた。しかしその時自分が何か考へ事をしてゐたことに氣がついたので、それは一たいどんな事だつたらうと頭をひねつてみたが、どうしてもわからなかつた。おしまひに老子は、金色の花瓣が落ちてゐたのさへどうだかわからなくなつて、石段を下りて來た。

 

 

莊子が壺を見失つた話


莊子が路ばたにころがつてゐる青い壺を見た。それがどこかで見おぼえがあるので立ち止つた。ハテ、これは昔夢のなかで見たのか、それとも、ほんとうの店先にあつたのだらうか……しきりに思ひ出さうとしてゐた時、壺のなかから白い蝶が一つヒラヒラと飛び出して行つた。しばらく立つて莊子がそれに氣付いた時、蝶は勿論、壺もどこへ行つたのか見えなかつた。

 

 

 

稲垣足穂の詩『香炉の煙』より中国風のものを選んでみました。

 

 

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