田中武彦  (モダニズム短歌)

 

・いちども冠(き)せぬベレツトといふ帽子それも柩(ひつぎ)に入れてやりたり 

・樂しげに落語聞きをるこの男がつねにイデオロギイを口にする男か

・夕明(あか)る海を見おろし見おろして居留地街にのぼり來れり

・羅馬のコルシアムを思はす街を歩み蔦におほはれし窓をわれ見き

・冷えびえしき聖堂の奥やうやく暗くマリア、ヨゼフの光背(ごかう)のみ見ゆ

・ステンドグラスの高窓ありて夕日光あはく透りをり隈にはとどかず

・聖堂を出でてあかるし足もとの冬草なかに蒲公英咲けり

・聖堂を出でて間もなきわが後(あと)よりオルガンのおと堂よりひびく

・通詞(つうじ)屋敷蘭人屋敷と見つつ來て花園見たり甲比丹(かぴたん)の花園

・ベランダに遊女いでてをり阿蘭陀船いまゆるゆると入りくるところ

・井戸のべに臘梅ふふむシイボルトの荒れし家址いまだものこる

・アフリカの荒き廣野を知らずして檻の日向に仔獅子遊べる

・ここにして見ゆるインクライン眼の下にロオプ光りて舟のぼりをり

・ゆうかりの高枝にしげき蟬のこゑ再び暑さ至りつるかも

・松の群(むら)すかしてテニスコオト見ゆ女學生ら涼しく試合始めをり

・さやらぎてこぼるる鳳仙花の實を髣髴す頰紅き少女らの愉快なる笑ひ

・ゆうかりの大樹の梢(うれ)のゆれなびきさむざむとして夕ぐれにけり

・目に見えて霧の流るる夜はさむし自動車(くるま)のうちに身をうづめたり

・窓外にけふの一日も昏れゆきぬまたゆうかりが搖れてゐるなり

・さ夜更けて妻は眠りぬ家近く夜間飛行機の音きこえ來て過ぎぬ

・小やみなきジヤズのレコオド病院の竝びの端(はし)のカフエよりか

・二月とも思へぬ溫(ぬく)さ窓(と)の外のテニスの音を妻も聞くらむ

・ここをいでむ相談に今朝は朗かなりシクラメンの鉢はもちて歸らむ

・高塀に沿ひてひた走り來し自動車(くるま)大き曲(カアブ)なし門前にとまる              (刑務所)

・向きあひて囚人ふたり手も休めず鳩の玩具にペンキ塗りゐる        (刑務所)

花麒麟の鉢花ひらくこの緣に三月らしき風の吹きよる

・原始林の暗きつめたさ感じをれり奈良の町近き山とも思へず

・新國道の坂のうへよりロオラ・スケエトの童(わらべ)二三人滑りてくるも

・のぞき見る洋風庭園の芝のうへ人をらずして球を打つ音

・電車より見おろしてゆくインクラインに夕靄たちて一列の鐵の輪

都ホテルの屋上に出でてこの晴れし夜空のもとの大き町を見る

・まれにゆく馬車に流るる夜の雨やうやく更けし哈爾濱のまちを

・中央寺院(サポール)の塔のみどりの濡れいろのもうあたたかき晝の雨なる

・圓屋根を二つならべて空のもと猶太(ユダヤ)の寺かどつしりと大きく

・つづけさまに彈丸(たま)はうちたれ銃身の灼けて曲りて陽炎だつを

・高臺も道路もなべて黄いろなる若芽の街なり海へ傾斜す

・春すでに芽ばえ黄いろきいちめんの明るきままの原に日は果つ

・大陸に一つの沼が湛へ居り刻(とき)を忘れしごとくしづかに

・水盤の金魚あふむけに浮べるなべ靑き婦人服には吹く風もなき

・もはやしづかに月のぼり居り磨かれて靑く輝く硝子窓より

・うつくしき少女をならべ清(すが)しき行(ぎやう)おこなふ如く林檎など配(くば)る

・オカリナは叫ぶが如く鳴り出づれ狭しと思ふ街の口より

・空の雲流れつつあり晴ればれとわれは切子(きりこ)の皿みがき出す

・蜜蜂は巢箱のくちに集りて花園はけふも氣まぐれの雨

・砂原はおのれ容(かたち)を夜毎に變へ沼なる如く朝をしづもる

・馬糧供給終りて歸るトラックのうへ旣に日暮れて月の光(かげ)さす

・己(し)が影を金にかへたる人のうへつくりごととは思はれぬなり  (プラーグ大學生)

・罌粟のはな濱いちめんに照り映えて海は濱よりはるかに高し

・靑空は低く傾き野はすでに眞白き蝶の生(あ)れそむる頃

・神々の危ふき性(さが)を咎むれど風やはらかく草にそよぐを

・大砲の筒(つつ)がまぶしき春となり神馬(しんめ)は白くきれいな毛竝

・とよみ來(く)る朝方にしてまどろみぬ常のことなれば美(うま)し夢も見ず

・かすみつつ黄に墜(お)つる日を背のびして遠望み居りわがいのちとも

・うつせみの疲れ兆(きざ)しくるいとふべくは夏斷(けだち)のこころはや頻りなる

・たちまちに春は來(きた)るとあわただしく明るき雨の宵(よ)ごと降りつつ

・法則はただしく季節(とき)を刻(きざ)むゆゑ痴愚なるわれのひとしほ汗ばむ

・モルモツトなど他愛なく殺しそのあとは眞顔になりてものを食ひはじむ

・砂時計の硝子に映(うつ)る秋雲の速き動きのまたなくやさし

・秋ふかき空に見たるはにぎやかに一方の隅を指してゆく鳥

・すみずみまでまことに靑き空を入れ幸(さち)呼ばふごと菊ひらきたり

・黄昏のいろ消えしかば庭の池靑く濁りてわがまへにあり

・高くゐて安(しづか)に翔(かけ)る鳥あれば天の蒼さがわが肌膚(はだえ)刺す

・暗き夜となる氣配にて二つ三つ椿のはなが地(つち)に落ちたり

・靑淵はなほ冬のいろを湛へつつまことに白き花浮かべたる

・瑟として風の音に鳴りいくばくもなく昏(く)れ入りし空が璧玉(たま)の如くあり

・風に偃(ふ)す低木のありて谷あひのあるところは空が瑠璃ふかく澄む

・近づきてその靴音がこの室(へや)の扉(と)の外に來てまた停(と)まるなり

・眠らざるこの夜半に見て月光が妖(あや)にまぶしく室(へや)にさし居り

・けだもののむくろは骨もあらはにてすでにむらがる蠅だにもなし

・かがやかぬその夜の月を怪しみて陷穽(おとしあな)には花敷きしとぞ

・夜となれば靑き焰の立つといはばまぼろしめけど肉の厚き花

・遠ぞらを群鳥(むらどり)の行くかげ白くしばし電車の窓に映れり

・丹椿(につばき)の花にあゆみをとどめ居り結界を出(いで)ぬ僧の如くに

・掌(て)にのせて椿の花の赤きころ晴れ澄める日のやや傾きぬ

・月夜となり冷えいちじるし庭檜葉の光こまかに搖れてゐるなり

・夢に似て山に日の照るきのふけふ水は激しくしぶきをあげつ

・枝重くくれなゐの花ひとつ咲き又ひとつ咲く暖かき國

・瑠璃色の珠(たま)なす草の影うつし一夜(ひとよ)の雨は土(つち)にたまれり

・小山なす砂丘のかなた海ありと思はば何か迫りくるもの

・大木のいてふもみぢば空に鳴り輝きて散れり風吹くたびに

・濱には霧いまだ殘れり午前十時の光ながるるこすもすの花に

・雨になる氣配の中に羽搏ける鳥かと思ふ近き物音

・うしろなる灰色の虹も刃の如く心つめたくなりてゐたれば

・山風はかくし自由に振舞へばげに壯觀なり樹々の彈力

・戞々(かつかつ)と歩めば遠き突堤(とつてい)のかげさへあらぬ石疊のうへ

・おとろへのしるきは言はね消えゆきて瞼(まぶた)に殘るいくつもの虹

・いつの代ともわかぬ月日の經(た)ちやすしひと山かけて雪つもる頃

・あたたかく雪は林檎に降り來(きた)る幸福の香(か)の漂(ただよ)ふばかり

・靄はれて驚くばかり峽(かひ)ふかし藍をたたへて水おと無きを

・雪割りていちはやく瑠璃の花咲けばしらじらしい嘘(うそ)をまた聞いてゐる

・神々の樂(がく)鳴りそめて清(さや)けきにまだ椿などはどこにも咲かぬ

・靑空は低く傾き野はすでに眞白き蝶の生(あ)れそむる頃

・山にして何いぶかしむいくたびか鳥など行けば空にも路(みち)あり

・蕎麥のはな明るく咲けり混沌と蘇(よみが)へりくる記憶のうちに

・眞晝間の野はひそけくてわが視野に入りくる花がやさしかりけり

・夜の底に音を激しく雨降れり人の怒りはわれにかかはる

・言絕えて歩みつづくる山のなか近き木立に鶯啼くも

・おそろしき手觸りにさへ冷えびえと火を翳(かざ)したる古き燭臺

・くれなゐに濡れ伏す花をつねになきかなしきものと見るやこの雨

・さむざむとさ霧の底に立ち竦(すく)みその葉を鳴らす灌木の群

 

歌集『暦日』『瑠璃』より

 

 


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