朝は白い掌を  乾直恵  (詩ランダム)

 

朝は白い掌を……… ..

              乾直惠


 朝が白い掌を私の額に翳す。私は新しい翼を生やす。
 私は窓を開く。家家をめぐつた樹木は、もはやみんな葉をふるつた。それは約束された切手のやうに、吹き曝らされた小庭の隅や軒下に聚り、毀れた私の人生觀とともに蹲まる。
 私は障子を閉ざす。葩は花瓶に。子猫は私の膝の上に。そして、晝の小窓の空氣の透明 ! 私はそこでインクの香たかい新刊書の頁にペイパア・ナイフを入れる。荷馬車のふりこぼして行つた乾草の匂に混つて、小鳥の聲が近い方向から透つて來る。陽脚の速力。讀書力の倦怠。私は無雜作にペンをとり上げる。ペンは四邊の薄暗さと呼應する。
 夕暮は私の羽がひを毮りとる。私は悄然と寢臺に倚りかかる。
 あの神經質な雜木林の梢の間へ落下したのは何だらう。あの痴鈍な灰色の雲の中へ消えて行つたのは何だらう。それは森の鍛冶屋の、小さな金敷の上で飛散した閃光です。水面鏡にうつつた岩角の、珊瑚の枝枝に咲いた華(はな)ですよ ! いいえ、それは私の影でせう。私は疲勞した咳をする。咳は影を追ひかける。
 私は靜かに吸入器をかける。吸入器の霧の中の天使たち ! 彼女らは私を𨻶間なく包圍する。私の胸の金屬の錘が、しだいに海綿體になつて行く。やがて私は氣體になつてしまふだらう。そしてこのまま昇天するだらう。私は傍のフラスコをとる。液體を机上のビイカアに移す。ビイカアの中の冷却した沈澱 ! ただ沈澱のそれのやうに、私の悲哀のみが殘される。悲哀に刻々洋燈を暗くする。

 

 

 


『肋骨と蝶』(椎の木社 1932)より

 



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