マダム・ブランシュ2  冨士原清一  (稲垣足穂の周辺)

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 すくすくと豊麗な月がシヤボン玉のやうにあがり、はたはたと靑いアルミニウムの旗をひるがへせば、實に素晴しくも華やかなガソリンの夜です。──それは靑い、靑い、靑い。はや踊り場のクラリネツトは風邪をひいてしまひました。
 まあ──、なんて妙に明るい月夜だ。
 瞳いつぱいにかのアートタイトルをみながら私も呟けば、
 ──もう澤山だ。こんな夜は。
 と、發電所の狡猾な技師めはスヰツチをきつてしまつて送電を中止するし、
 ──こんな夜に瓦斯はもつたいないつたらありやしない。
 と、貧乏な瓦斯會社は街燈を消してしまひました。
 私は窓から街にひろがつてゐる靑い地圖を眺めながら、先刻(さつき)投げた街上に死んでしまつてゐる53枚のトランプに、探偵小説をひらはんものと、やがて街上にでるのでした。
 白いテブクロを指に嵌めると百合の花が咲き、ステツキの尖端で月を指せば月はくるくる廻轉する的物(あてもの)板です。
 ──こん夜はどんなボロボロの自働車だつてすつかりニツケル鍍金だ。それに何處までドライヴしたつてヘツドライトもいらなければガソリンもいらない
 ──だから……
 だからどうだと云ふのか。私は下手なロミオ役者みたいに、街いち面にひろがつてゐる靑い地圖を盗み見るのです。さうして私の陰謀はすつかり熱してしまふのでした。
 ──あのフイルムのなかの白い女性を誘ひだすに絕好の夜である。
 想いだすかのフイルム地帯の白色テーブルに、淡いノスタルジヤで挨拶を投げ、ひらひら飛んできた蝶々をこれは珍らしいとネクタイピンにかへ、きらきら魚がおよいでゐるアカシヤの並樹を、私はいつぽんの植物のやうに步いてゆきます。
 ──ねえ、マツチをするときには用心なさいね。こん夜は走つてゐる汽車つたらまるで變な洋燈(ランプ)だから。
 顏色の惡るい女の聲がすると、傍らに黑い衣裳を纏ふた女が立つてゐます。いち枚の銀貨が私のポケツトからいつ匹の白い魚となつて飛びでると、女はもう消えてしまひました。さうして更らにさらにいつぽんの植物に近く、街燈がインターメゾーをきいてゐる活動寫眞館の通りへと步みつづけます。
 1點……ひよこりと現はれたもの、見れば砲彈形のシネマの出口に、天鵞絨光線の秋波に送られつつ黑いタキシイドとシルクハツトの一見硝子性紳士です。
 紳士と私は慇懃な距離をはさみながらだんだん近づいてゆき、さうしてとうとう出會つてしまひました。すると擦れ違ひさまにその紳士は私にシガアの火を要求しましたので、私はシガアをさしだし、うつむきさまに何氣なくひよつとその紳士の襟をのぞくと、そこに刺されてあつた筈の薔薇はあとかたもなく、そのかはりそこには白墨のX印がついてゐるのです。
 ──ざまあみたまい。
 ふとこんな言葉がとびでるのをおさへて、私も微笑を咲かせ、ふたりはたがひに微笑を氾濫させながら、ふと思ひだしたやうにたがひに顏を見あはせて
 ── Good evening !
 ── Good evening, sir !
 と、この水族館のやうな良夜を祝福するのでありました。
 やがてこの紳士の影がアカシヤの葉影に消えたとき、私にひとつの poetry はこの夜のなかに、ピストルか、白粉か、花のやうに咲いてしまひました。
 ──あなたの顏の上につくられた麗はしいマーブルの都のために、私はいま1臺の飛行機を用意しなければならない。

 

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