マダム・ブランシュ3  冨士原清一  (稲垣足穂の周辺)

 

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 白い霧がふつてきました。洋燈(ランプ)はさんさんと咽び、ガラスは昏々と眠り續けてゐます。高層建築は薄すれ、寺院の圓頂(ドーム)は夢のやうに沈み始めました。いま街は海底に明るい潜航艇の漏光を想像させ、私はこの白色の瀰漫してゐる濕潤ある液狀空間に、仄かな圓形を憧憬れるのです。

 鳴らないいつぽんの笛である私
 靑ざめたいつぽんの植物である私

 私は步み續けます。前にひろがつてゐるのはプラタナスの美しい整列です。だがいつたいどうしたと云ふのでせうか。この街にこんなところがあるとは今まで思ひもかけぬことです。でも私の腦膸のなかを、恰もいつ隊の兵士のやうに、あはただしくこれらプラタナスの整列がすぎてゆくのはこの並樹だけが、よしそれが夢のかけらのやうなものにしろ、自分の記憶のどこかに潜在してゐたのでせうか。
 霧は漸次に深くなつてきます。步み續けてゐるうちに、どこからかこの液體面のやうな空氣を透して、テムポの緩るいヴアルスが流れてきました。ユニゾンで奏されてゐるらしいヴヰオロン族のポルタメントがひときは甘く漂ふてきて、ときどきサキソホーンが快朗な風のやうに私の耳をかすめました。私は樹葉に靑く頰を染めつつ、アスフアルトの上にせんもないアルフアベをひらひながら、折柄の風にひとしほ高くなつた音波のなかを次第に樂器に近づいてゆくのでした。
 突然私は步みを止めてしまひました。なぜなら不幸にも私はかの樂器から全く反對の方向にきてしまつたのか、いまは全くなにひとつ聞こえてこないからです。これは霧によつてなされた錯覺でせうか。不審によつてさびしく凝固してしまつた眉に、いまさらに冷たい霧は冷ややかに感じられるのでした。
 ふと睫毛の上にちらちらとかすかに黄ろい燈火がふつてきたので、思はずもその方を見上げてみると、思ひもかけないこのラビリンスのやうな一角に、白い夜空をほんのりと切つて、壯麗なイオニヤ風の邸宅が聳えてゐるのです。さうしてむろんこの燈火はそのステインドグラスの窓に漏洩してゐるのでした。凝つと、あまりにもこの燈火のなつかしさにこの窓を眺めてゐると、
 ──おやつ ! ハンカチーフが !
 私は思はずも叫びだすところでした。それは白い小鳥のやうなものが、そのいち番大きい矩形の窓から放たれたからです。見てゐるまにそれはひらひらと空間にカルタのやうに翻へりながら靴先きに落ちてきました。アスフアルトの上に花びらのやうにほんのりと咲いてゐるそれをいそいでひろひあげてみると、それは蝶形をしたいち枚の眞白いカアドに過ぎないのでした。が、何氣なくそれを裏返してみたときその細い蝶の丁度體の部分に

    Madame Blanche

 美麗な活字が行儀よくこんな風に並んでゐました。
 ──白い夫人(マダムブランシユ)
 いつたいこれは何を意味してゐるのであらう。それに見いつてゐる私には、その白い紙のなかから色々なフアンタジアが浮きでてくるのでした。おしまひにはこのちつぽけなカアドがあたりいつぱいにひろがつて、なにもかもみんなおほふてしまひさうです。いやいやそんなことを考へるより、なんと今夜にぴつたりとよく似合つたことでせう。私はとうとうあの白いメルヘンの街にきてしまつたのでせうか。私の全身はあの笛のやうにやさしく鳴りさうで不安です。
 全身にやさしいトレモロを感じながら、依然人影も見えない窓を眺めてゐると、いままで金色(きんいろ)に輝いてゐた燈火がだんだんピンクに變つてきました。みればいま霧のいち群はかれらのなかに白いメルヘンの街を抱いて、この實在の港から離れゆかうとしてゐるのでした。
 霧が靜かに白い圍撓を解いてゆくと、宏壯な邸宅は次第に姿を現はしてきました。あの屋根いち面に葡つてゐた蔦かずら、あの白い椅子の並んでゐるテラス、さうして遂に、ああなんと云ふことでせう。私は當然見なければならないものをはや見てしまひました。忽ち私はかの西班牙の城壁の匂ひを感じ、今夜花合戦の催されたかの伯爵夫人(コムテス)の邸宅をまのあたり見るのでした。
 この捕ふべくもない氣體に作用された空間の遊戯に、呆然と自失してゐる私のまへに、さあつと、華やかな光線は照らされました。やがて夜會果てて扉ひらかれたこの邸宅から、ざはざはと談笑に縺れながら黑いシリクハツト白いカラーの紳士たちが現はれてきました。さうしてさびしいガソリンの匂ひが、パツとこの深夜に漂ふと、やがつてゐた自働車の花はくずれてしまつたのです。
 私は白いカアドを手にしながら、いま始めてこれが今夜の伯爵夫人(コムテズ)の趣興であつたことを知りました。
 またちつぽけな貝殻釦のやうに、この甘かなしいガソリンの匂ひのなかに置き忘れられてしまつた私のまへに、この壯麗なイオニヤ建築の窓々から、燈火が 1つ2つ3つ・5・6・7・……

 

 

 

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