天国への通路  山田一彦  (稲垣足穂の周辺)

 

天國への通路
ou Quand l'Eternel s'aproche de la fin de L'ETERNITE

            山田一

 

      Ⅰ

  例へば貴方は靜かに花でふちどつた鏡にうつるように眼鏡をはづせ,庖丁をもつて眞赤い林檎を眞二つにわれ。
  花の鏡の花辨のゆれないように,最善を盡して眞赤い林檎を眞中から眞二つに割れ ! 貴方は僕の友達の中で
  最も惡い奴です。が, もう, よい ! 紅葉色のネキタイをはづした天使が貴方を林檎の中は赤くない白である
  とつぶやきながら迎ひに來て居る。

      Ⅱ

 眞珠貝の鏡の中に夢のように靑い傘をさした靑い年齡のドモアゼルがシガアの煙をいつぱいつめた夢のような浮袋を両胸に飾つてマダムみたいに劇塲で夢のような扇をひろげました。
劇塲は時ならぬ夢の花でいつぱいに咲きました。詩人たちは夢のようなパイプで銀河(ボア・ラクテ)吸つて居ます。すべてが夢のやうな天使の鏡でふちどつた花のテアトルです。

      Ⅲ

 劇塲から出る長い腕が鏡のふちにとゞくように毛眼鏡の如く朦朧として抽象的な風景に朦朧として毛眼鏡の如く抽象的な風景の如き人間を運ぶ石段に於いて非常に貴重である珊瑚は紅玉の鏡の如くである。紅玉の舖道とVOIE LACTEE は天國と地獄へのふたつの道である。例へば貴方は紅玉の舖道を三度乃至は二度その方向を間違へねばならぬ程明瞭に白い衣裳を着けた老婦人の廣吿あるひは花のようなふたつの道である。

      Ⅳ

 蕊のような髪を分けた詩人の顏は夢のようである。花が散るよと鳴く鶯の唇のように夢である天使の唇を天國へ向けた詩人は夢と死のように分けた蕊のような髪を後へなでる。詩人は死んだパイプを喞へて死の眼鏡を懸けて机上の遺言書から毛眼鏡のような夢の影をケシゴムで削つて紅玉のやうに明瞭になる。
  『實業家は詩人と關係なしに崇高なる淫賣を營む天使と夢に關係はなのいである。』と

      Ⅴ

 七面鳥は長靴を沓いてシルク・ ハツトを懸け胸に穴の空いてゐる奇麗のシユミーズを着て居ます。もしもそれが正月の毛皮で喉をふくらませた貴婦人にみえますか 貴方達はもう貴方達の後の鏡の中に死んだ美の影を誰にもさとられないように眼鏡の手袋でぬぐふことを覺えたのです。と思ひます。

      Ⅵ

 ラウドスピカへ唇を當てて活動寫眞をアルコールで消毒しやう。ついでにその黑い手袋の細い電話の絲を齒磨刷毛で磨いておかう。天國への路は坊主頭のように球に似て居て理髪したウニのように不潔だ。
永遠の處女ダイアナは永遠が終りに近づいた時その電話線の上を笑ひながら私と腿を組んで天國へ戀人を探しにゆく最初の佛蘭西人でも、獨逸人でも猶太人でもある淫賣婦であり彼女は下界のアンテナの上へ電線が無くてもアイロニイの無い所へアイロニイの通ずる探偵アポロをペテンにまいたラヂウムのように輝くダイアナの毛髪を電話線のやうにしかみえないように垂れて居るとしかみえない。一九二九年一月五日に天國と下界はそれほど完全に接近してしまつた。

 

 

 

 

 

※原詩では、「ou Quand」以下のフランス語の副題、Ⅰ節、Ⅳ節最後の「『實業家は 』と」の文は、他の部分より一回り小さい文字です。
※原詩では基本、縦書きですが、Ⅰ節のみ横書き。
※Ⅰ節「ネキタイ」→「ネクタイ」?
※Ⅱ節最後の「銀河」の振り仮名について。私の持つコピーでは「ボアゞフクテ」のようにも読めるのですが、Ⅲ節の「VOIE LACTEE」=「銀河、天の川」のことだと思われます。現在なら「ヴォワ・ラクテー」とされるのでしょうが、原詩の表記に準じて「ボア・ラクテ」としています。
※Ⅳ節最後の「關係はなのいである」→「關係はないのである」?

 

『衣裳の太陽』NO.4 昭和4年(1929年)2月

 

 
山田一彦 惡魔の影
山田一彦 海たち
山田一彦 寛大の喜劇
山田一彦 CINEMATOGRAPHE BLEU
山田一彦 二重の白痴 ou Double Buste
山田一彦 花占ひ
山田一彦 Poesie d'OBJET d'OBJET
山田一彦 PHONO DE CIRQUE
山田一彦 無限の弓
山田一彦 桃色の湖の紙幣
山田一彦 Mon cinematographe bleu

 

 

 

 


稲垣足穂の周 辺 目次