林亞夫  (モダニズム短歌)

 

戦後は林民雄の名で歌を発表している。昭和12年ごろは、山田盈一郎とともに、エリオット、パウンドに惹かれていて、ポエジー派の颯爽たる理論家として知られていたらしい。簇劉一郎の友人の同名の童話作家は彼のことか。

 


・醫學生が兎を買ひにゆく 花粉のなかのサモワル これから睡る

・小犬 パアゴラに干されたままだ 破れ馬車の聲だけする。

・太陽が河を洗つてゐる 惡癖と十字架が多い 島の合圖きいた

・驟雨もある 公使館の花花はすでに古くなつてしまひ 風化です

・鳥を絞めころす 前齒をしろくするために 放埒な時間を流しながら

・毛髪はえばれと結び 祭典であつた ウオツカならば咲けよと合唱する

・ライカ それは淫らな掌をしめす 横目で 少女は灌水浴の準備をする

・洋畫展では派手な儀禮を 花總(はなふさ)あるひはソワレなど 午睡の區域に屬した

・沼澤に近い よごれた樂譜ばかり 少女は兎唇である

・まい日の洋裁に慣れた 華奢な義眼(いれめ)のひと ギタリストは愉しく打つ

・記念館で訣れる 薄倖な走り書き そのまま句點となる

・ヴイナスの像に霽れる 雅宴のあと 祝砲は海へゆくのであつた

・匂つてゐるのは木犀 そして 波止場へ行く犬とこんがらかつてゐる女たち

・小猫すてに行く 道すがらヘア・ピン落ちてゐたし 月の形もおぼえてきた

・吠えてゐる船 水夫長の小指(れこ)の死産 その方角へさかづきを擧げる

・競馬場に凭れるのは月ばかりでない ギタルとホタル 茗荷を祭る風習はすたれた

・靑い枝へチイズは懸る あれは呼吸器といふものだ ヨアケの術語には騙された

・大學の屋根から風が吹く 西瓜畑でプルタアクをよみ穀物のやうな顔をしたのは誰だ

・赤面する右の家屋だ 告知板には濡れたモノクルが光り もつぱら毒舌した

・Q市の叔母は饒舌に脚を早めた 飢饉もヒツトする あれは象皮病の処方だ

・ひかる裝身具をかざし 新たな軍記をしるす
響(とよ)む それは海ばかりではない

・匂へる干戈(かんくわ) そのかずとおなじき碑文をよむ 湖水には雨がそそいだ

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中村鎭  (モダニズム短歌)

 

・自動階段(エスカレーター)。花ひとつ。私の足元まで昇つて來て踠(もが)いてゐる

・自動階段(エスカレーター)。自動階段(エスカレーター)。花ふたつ。平行に昇つて來て、左右の窓から別々に別れて行つた。

・自動階段(エスカレーター)。花ふたつ。ひとつリボンで結ばれて、昇り詰めると解けてしまつた。

・自動階段(エスカレーター)。自動階段(エスカレーター)。花ひとつひとつづつ昇つて來て、ひとつリボンで結ばれる。

・自動階段(エスカレーター)。花ひとつ。私の足元で咲いたまま 〈戀人の訪(たづ)ねて來る午後であつた。〉

・表情のかたさに麵麭(ぱん)は食(た)べられる ひと房(ふさ)の葡萄があつて 孤獨ではなかつた 

・麵麭(ぱん)たべて殺(ころ)される 愛憎への杞憂が 蟻の進軍のやうに コツプの水の澱(よど)み

・〈2(ツウ)─10(テン)─J(ジヤツク)〉麵麭(ぱん)ちぎつてたべる たべきつて ひとの死にも たべられる

・表情のかたさに麵麭(ぱん)は食(た)べられる ひとの死に たべねばならぬ葡萄もあつて

・暗い暗い寒い空 白い白い吹雪の巷(まち) こんな日に邪教殺戮の血は流されるか

・邪教殺戮の雪日だらうか 化粧された愛國劇の流血だらうか 戒嚴令下ここ帝都の混沌に でも鶯が鳴いてゐる

・吹雪の中のナポレオンの勲章であらうか 黄いろの太陽は重量に耐へて〈吊り落された!〉惡寒の窓 水仙の搖れ また雪

・また降つてつむ雪〈白紙もえるままの化石となれ〉雪崩(なだれ)る日までの街の傾斜 鋭角に結ばれて銃剣のとかれず

・暗い暗い寒い空 白い白い吹雪の巷 混沌として鶯ばかり 天氣豫報(ラジオ)のやうに〈雪、のち晴れ〉であつた。

・ひた馳りに驅つて蹄鐵に烟る 槍騎兵の一隊過ぎ去つた十字路には杏の花盛り散るに迷つてゐた

・ただ灼(や)けるだけ 砂場の沖の水平線の炎(ほのほ)の海の冷たい表情 圖太く女がウクレレを彈いてゐた

・雷鳴のある雲 急流を遡(さかのぼ)る風 銀魚(うを)の多情(こころ)の彈性にひらけば さびしい彼女であつた

・澱(よど)み黄昏(たそが)れ、銀鱗(うろこ)・銀鱗(うろこ)の赤い 〈花・花の離別(わか)れ〉 激情を身悶え、裸魚の沈淪(しづ)む


 〔茉莉(マツリ)〕紫茉莉科に屬する木、熱帯地方に産す、葉は圓狀にし、對生し、枝端五瓣白色の花着生し、夕に開き朝に落つ、香氣高し。
 〔末利(マツリ)〕後漢書に曰く「理國之道、擧本業而抑末利」本業とは農、末利とは工商の謂である。

・往古(むかし)は〈末利〉を業(なりはひ)する氓(たみ)を奴隷とした。それから餘りに暗い歴史の黄昏(ゆふぐれ)、人々は自らの眼(め)を抉(えぐ)ると、新しい眼(め)に茉莉の花が純白(しろ)かつた。

・末利に求める視線が黴菌(かび)のやうに穢(けがら)はしい、ドン・キホーテ氏の墓前にも紫茉莉(むらさきまつり)の木があつて、産業革命の日であつた。

十八史略に〈末利〉といふ語を講義する日、私はこの茉莉の花を謳歌する少年達を悲しめないために、二十世紀のドン・キホーテの表情を自嘲した。

・純白(しろ)い茉莉の花が煤煙に汚(よご)れて散らうとする。〈軍需工業など……〉小さい末利の奴隷に需要(もとめ)て私の居る。

・茉莉の朝をまつまでもない。ウエルズの來るべき世界が、幻像のアンクル・トム氏が、漢文末利(かんぶんまつり)の若い敎師の去来が……。

・思ひ思ひのパステル畫 沈黙の鏡は でもカメレオンの表情に粉碎するので 冷雨のだらだら坂を蝶々は消えてゆくに過ぎない。

・妖精の舞踊劇(バレエ)を踊る 冴えて星ぞら。赤いトルコの弦月旗ふつて地球は雪。ぶよぶよ肥(ふと)つてゐた。

・メリー・ゴーランドが後退してゆく 近衛公の顔のやうな高級車で 詩人達も出發してゆく。

・黄色い夢に秋を見る。南畫の遠い島に、新らしいメリー・ゴーランドが建設されて、ダリヤの聯隊旗も咲いてゐた。

・X光線らしい焦點で、戰爭の悲哀を換算したいろいろの花、アジアの地圖のひろくなる日の──。

 

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グウルモンにささぐ 衣巻省三  (稲垣足穂の周辺)

 

    グウルモンにささぐ 

             衣巻省三

      シモオヌ 雪はそなたの脛のやうに白い
      シモオヌ 雪はそなたの手のやうに冷い

 

たそがれ 丘の上に雪がわたる
丘の下ではたくさんのシモオヌが死んでゆく

 

    無題

月光に空氣銃の先がひかつてゐる
猫はむかふをむいて動かない
私はトランプの肌に耽つてゐる
眞晝のようなしづけさ
空氣銃で猫をどやしつけようと思つてゐる

 

    發狂

薔薇色の一點が私をいざなふ
ふいとその方へ道をそれる
眠りに入るように引きづられて行つた
目覺めようとすることはくるしい
元の軌道はもう見えなかつた
ここの方がよほど樂である

 

    梟

森に黄色い提灯をつけてゐる
惡徳行爲がどこかではたされた

 

    憂欝

いろんな音響が生埋めにされてゐる

 

    闇
     彼女のうちには闇があふれてゐる──ボードレール

懐中電氣をもつて彼女の地下室にをりて行つた 何が彼女を美しくさせるのであらうかと思つて 私はなにもみつけることはできなかつた 電氣がたちまち消化されてしまつたからである 霜のような凜烈たる闇の潮にやがて私をも失つてしまつた

 

    背中合

どちらかゞ地球を一と廻りしてをいで
さすれば面と向き合へる
近くて遠い仲とはこのことにて候

 

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石原純  (モダニズム短歌)

 

・線條は面を幾何學的に劃し、風は常に新鮮である。さすがに畫布の上で女は永遠に微笑する。

・ある夜壁面(へきめん)に白い花が開き、心臓が黄いろいふくらみを覺える。さて、心靈學者は徒に神秘を創造する。

・忘れられたやうに朱塗の硯箱が置かれてゐる。かたはの廢人のやうに自由主義がいまいたはられる。

・鵞鳥の翅から曾て鵞ペンがつくられ、黄いろい蠟燭の光りのもとで人々は原始的な科學を愛し始めた。

・橡の嫩葉がひらく。なにかしら粘るやうな感觸。近代的な鋪道にももうゆふぐれの植物生理が始まる。

・ギリシヤ風の鼻が妙に尖つてはゐましたが、でも思想の輪郭にはやはり日本風なまろみが見られるのでした。

・いびつな、ひきちぎれさうな不協和(ふけふくわ)音階、思想轉向はうらさびしい戯畫である。

・機械だけが規律的にはたらく。かくも無秩序な人間社會の機構のもとで。

・水蒸氣は褐色を嫌ふ。彼女のやさしげな頰に、一點のちひさな黑子が生れる日であつた。

・秋は木犀の香がにじんで、唇のあかいのは、こゝではひどく非科學的な思想であつた。

・歳晚の動き、旣に天文歳時記はしろい埃(ほこり)にまみれ鋪道はいたづらに凹凸模様に充ちる。

・およそ くらいものほど ひかる。いましめられる非常時の なにとない おののき。

・怪文書が横行する 世代の心理。相貌を歪めて 機敏な株屋は 煙草のけぶりを 占つてゐる。

・きめうな調子で 流行歌が 群衆の耳を魅する。だから おもい扉も 風に ほろりと仆れるのである。

・オゾンのない空氣、いつも空腹さうな 庶民階級、ビルデイングの壁は どうも そつぽを向き易い。

イベリア半島では あかい旗が 風にちぎられ、ラテン語が 倒さ讀みされる。

・公園の小みちで、市人は 思想をおき忘れてしまつた。ふと北風がふいて、馬がぶるんと 鼻をならした。

オリンピアの 聖火のもとで くにぐにの爭ひが 燃燒する。世界の鎭靜劑に 一塊の臭素が不足するさうな。

・花たばを挿した ちひさな壺、影は まことにふしぎである。こよひ 聲調のたからかな 舞臺の歌のひびき。

・都會人の群の騒々しさ。放水路に 冬の姿がさみしく、毛織ものは 吹きさらされてゐる。


『新短歌 年刊歌集 1937年』『新短歌 年刊歌集 1938年』

 

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簇劉一郎 Ⅰ  (モダニズム短歌)

 

歌人としては簇劉一郎または会田毅(本名:あいだたけし)、推理作家としては北町一郎。簇劉一郎は「そうりゅういちろう」と読むらしい(『論創ミステリ叢書 北町一郎探偵小説選Ⅰ』解説)。


・東南風曇後晴 測候所横のグランドで 失策の多い試合が始まる 梅雨ばれ

・華麗に硝子の割れる音 ボールが轉がつて 紅くカンナの午さがり やがて少年の聲

・萬國旗つらねた中華料理店の 朝顔鉢は見事に咲いて 單色に菜單をとりかへる

・五圓の昇給に五圓の月賦、一夜ホテルの情熱の夢、彼女は通俗小説(ロマン)の讀者であつた

・廢帝がひそかに國境を通過する 霧の夜の薔薇に むづがる巴里娘(むすめ)の聲がする

・彼女が鼻をつまらせて 冷たい鼻をよせてくる、ポチよ、と呼んで その鼻撫でる

・經済圖表に珈琲をのせ ふりむく右手の小切手帖へ 地形圖なども持ち添へてやる

・金輸出再禁止案に議會が拍手する この日、受胎の講議が生徒を赭らめさせて

・赤新聞の演藝記者が 赤襟孃の手玉にとられて眼をさます 記事解禁の呼賣がくる

・銀價暴落が ふと 失戀の大統領の署名を誘つた、條件附婦人參政權認可法案

・ツウドア式のオースチン 外國公館の紋章があり 開いて抱かれた犬が出てくる

・雜誌社が轉居して「貸室あり」「溫いサンドイッチ」のちらしなど ひそませてくる

・褐色の葬儀車を追跡する 鶴が舞ふ公園で 大衆作家がステッキを忘れた

・「世界人文誌」滿載の三輪車(オート)が檢束される サテン好みの襞のない空の下で

・ESCAMILLOと足で描き 室内樂と管弦樂の距離などを訊く男

・洋玉蘭の密生してゐる平原だつた 一團の兵匪がまたも 部落を凌辱してゆく

・婦は臥てゐる……………戯劇を 子らがまた木蔭で繰返す 父の銃殺された

・兵に銃聲 武裝した一群が 汗をふきふき殺到する 視野で捕へた食餌の家に

・お玉杓子に似た顔だつた 汗くさく魚くさく……………………歸つて行つた 男

・充された珈琲杯(こをひいかつぷ)を空にして 男の長い革靴だつた モルモン經典も飾られた部屋で

貞操を疑はれ 妻は典型的な自殺を遂げる 縊死 窓の外の高い高梁の月

・金本位離脱の吉報が私を悲しませる その午前 街は祭禮にはじける向日葵であつた

・一人の不幸が二人を不幸にした 岬の沖の船の船首の 赤い旗など振られてゐる

・ナポレオンの像をきざむ 白いレニンの墓碑などきざむ 雲が流れて 夜業が終る

・Dairyと書いてDahliaと誤植される 甘い珈琲のあとで 戴冠式映畫などあり

・受け損つた黑いゴルフ・ボール 瞬とコツプに消えるお砂糖 それから續きの千一夜

・廢帝の水泳ぶりなど聞えてあり 葡萄園 竹田の山水が萬を呼ぶ

・米蘭交渉委員が眼鏡を忘れた ホテルのヂヤズの葉牡丹で 國際會議の窓に倚るライカ

・代理公使が招電のベルを押す 曇りある六月 花賣りの聲

・一つの經驗が貴重する 一つの歴史が回想する あはれ 資本家は年老いにけり

・過去に跪いて薔薇を差しだした 流行歌手がサインにはにかんで圖書館司書がひそかに欠伸する

・批評の無智を嗤ふ──屋上庭園夜の體操──錢湯がへりの靴ずれのあと

・再び條約の不可侵を論じあひ 再び國旗がある星條旗 この清潔な畸形兒を見給へ

・商船の紋章 千綱の家紋 漕艇コースの測量ある日──三番登記の使者が發つ

・オリムピツクが氾濫する 喫茶店模様の代辯者たち 競馬ありて 増發される省線電車

・まぶしい垣をまはつて 大臣秘書が躊躇した 古い戀愛アルバムではないのだが

・街に人を呼ぶ 黄昏れて 空に風あり 少年ら 汗ばみ群がつてゐる

・杏の葉 いたづらに汚れて 午さがり 童子ら 痴語をかさねてゐる

・曇天の 視野のみ蒼くやせてゐる この備忘録の扉の重さ

・確なるたよりを信じてゐるといふ 病者へ果汁をすすめてゐる 邪教禁止の その朝であつたが

・茶器のよい茶室の そんな二人の營みであつたが、──この朝、神われに童兒を賜ふ

・君を海峽に見送る日 空が曇つて 風が出てゐる 汽笛に遠く凧が鳴つてゐる(白井尚子に)

・信ずる事の難しさと君はいふ 信ずることの容易さと僕のいふ 信ずる事の貴さを知らぬ世界故に

・白い封筒が落ちてゐる 航空機が一つの記錄を作りたがる やがて大學の臨床講義が始められる

 

『新短歌 年刊歌集 1937年』『新短歌 年刊歌集 1938年』

 

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不幸な鴉の話 4 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 だが、毎日、御天守の上空を翔ひ乍ら、斯うした盡きぬ怨言の縷々を吐き連ねてゐた鴉は、或る日、不圖、或る奇怪な出來事に兩眼を見張つた。と言ふのは、今の今まで自分の眼下に繪巻のやうに靜かに鳴りを潜めてゐた城廓と其の周圍の湖水とが、どうやらメリーゴーラウンドのやうに、(もつと適切に形容するならば蓄音機のレコードのやうに(くるりくるりと迴轉し始めたのであつた。)「まるで獨樂迴しの迴す獨樂のやうぢや。」と、鴉自身は此のやうに呟き乍ら、暫時不審の小首を傾けてゐたが、軈てのことにカラカラと高らかに哄笑したのち、次のやうに喚き始めた。

 

 おお、これは一體、何事の前兆(きざし)であらうか。今に湖水の水が渦巻き溢れて、一早く城廓を呑み盡してしまふたのち、この城に屬する領土の上にも漲るのではあるまいか。さうぢや。迴れ 、迴れ、ぐるぐると迴るがよいぞ。もつともつと速う迴るがよいぞ。呪はれた城め、そして湖水め。これが天の正しい裁きであるかも知れぬのぢや。──


 だが、此の日の眞晝、此の城廓の灰色の石崖に、水際近く洞穴(ほらあな)を穿つて巢喰ふ卑しい非人等の一人が、ちやうど此の刻限に、其の洞穴の入口からそツと杓文字(しやもじ)のやうな首を差し伸べて瑠璃空を仰いでゐたが、その首も亦、如何したことか突然に叫び始めた。

 

 ──(杓文字のやうな首の叫び)ハテ、一體、あの鴉め、如何したといふのであらうか。毎日この御天守の眞上に翔ふて來ることに何の不思議もないけれど、今日としたことに、まるで皿迴しが迴す皿のやうに、ぐるぐると身を迴してゐるではないか、見てゐても、眼がくらんでしまひさうに。──

 

如何にも鴉が喚いた如くに、此の天守樓を針棒として、此の城廓と湖水とが、恰も獨樂迴しが迴す獨樂のやうに旋迴してゐたものか、それとも或ひは、此の城廓の石崖に籠る非人の首が叫んでゐたやうに、天守樓の上空に翔ふ鴉こそ、宛然(さながら)、皿迴しの皿のやうに眼まぐるしく渦巻いてゐたものか。何にしても、鴉の眼には城と湖水とが、非人の眼には其の鴉が 、それぞれ旋風のやうに迴轉してゐるやうに見えたに相違ない。そして、此の數刻の後、高い天守樓の寂として棲む者も無げな絕頂に穿れた銃眼の一つから、誰れが射放つたものか、突然、一本の矢が流れ出て、恰も此の不可解な物語に成る酸鼻を極める結末を與へようとするものの如く、ひやうと風を切る鋭い唸を殘して、雷光のやうな速さで天空へ飛び上つて往つた。

 

第9次『新思潮』18号 大正15年(1926年)9月

 

稲垣足穂の周辺 目次

 

 

 

不幸な鴉の話 3 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 怪しげな天守樓の上半身が、暗黑の松松に深々と腰をば埋めて、默々として夢魔のやうに、又、幻影のやうに夜半の天空を摩してゐた。そして、此の高樓の半面は、今しも夕立のやうに烈しく降り注ぐ月光に洗はれて、恰も羽擊(はばた)くやうな白々しさに晝を欺き、又、他の半面は、恰も其處だけが取り殘された夜更けであつたかのやうに文目も分たず黑々と蹲り、煌く湖水の浪に其の息づく如き朧ろな影を映してゐた。復しても不思議なことに、此の天守樓の窓々は四面盡く開け放たれてあつたものと見え、其の證據には、湖水の浪に搖られる此の塔の烏羽玉いろの投影にも、窓に當る箇所だけが凄じい白銀(しろがね)いろ月氣に貫かれて、魚鱗のやうな波の肌をば鮮かに躍らしてゐた。御殿の裏手にふらふらと差し掛かつた城主は、廻廊の欄干(おばしま)に身を寄せ乍ら不圖(ふと)此の影に眼を止めてゐた。すると、湖水の浪に映つた此の天守樓の影の(月光にくり拔かれた)明るい窓のところに、突然、暗い左右の柱の蔭から現れた二つの人影が、言葉無き影芝居を演じ始めた。一つの影は家中の若侍と覺しく、弓のやうにそり打つた太刀を佩き、もう一つの影は御女中らしく髪を御殿風に結んでゐた。ぢつと湖水の水面を見つめ乍ら、抑へやうも無い瞋恚の炎をむらむらと胸に燃やした城主は、忽ち、夢のやうに浮いた廻廊の欄干から身を飜すい早いか、蹣跚として淺間しい素足のまゝ、庭先の樹間を縫ふて蹌(よろ)ばひ走つた。「おのれ、不義者奴等其處動くなよ。覺悟を致せよ。」心荒びた城主が此のやうに叫び乍ら、湖水の浪に搖らめく御天守の影を石崖の上から睨まへ下ろした其の刹那、何者とも知れぬ不思議な力が、城主の背をば突然どんと突き飛ばした。足場を失つた城主は惶(あはたゞ)しくも、恰も鳥が飛び立つ前の身構へのやうに、兩の腕を左右に擴げて二三度空しく羽擊(はばた)いて見たものの、到底それが五體を空間に支へる術(すべ)ともならず、今は止むなく觀念の眼を堅く閉ぢ、譬へば梢を離れ病葉(わくらば)のやうに、峙立つ石崖の上から湖水の浪間へと吸ひ落されて往つた。

 ──(烏の獨白) だが、まことに永い幾刻かゞ過ぎ去つたにも關らず、わしは未だに我が身が水中に沒入するけたたましい水音を聞かなかつたが故に、不圖、恐る懼る半眼を見開いてみたところ、訝しくも、今の今まで月光の啜り泣く夜更けであつた筈の四邊は、すでに眩い天日の光が一面に美しい黄金を溶いて漲り溢れた眞晝間であつたのぢや。そして、自分の五體を恰も天空に迷ふ雪片のやうに如何にも輕やかに感じたわしは、猶ほ一層大きく兩眼を見開いた時に、驚いたことには吾が身は此の湖水の浪の面と擦れずれに、其の浪の眞上を行衛も知られず翔ひ漂ふてをり、しかも、水面に映つた我が姿は、左右に擴げた兩の腕こそ二枚の墨染の翼と變じ、又、此の面差しは尖り細つて漆黑の嘴と化し、すでに一羽の醜い鴉に落ちてゐるのを知つた。遠く杳かに振りさけ見れば、我が棲み古した城廓の横顔は宛然(さながら)箱庭のやうに小さく低く、波浪の蔭に見えつ隠れつ霞んでゐた。──

 烏は此處で暫時沈默を守つた後、再び言葉を續けてゆく。

 ──(鴉の獨白) 此の三界にわし程罪業の深いものが二人とあらうか。あの夜、わしを石崖から突き落した曲者の正體さへも、それが何者であつたかは今以つてわしには皆目頷けぬのぢや。それさへしかと判然致さば、今とて風を割り老松の梢を掠めてあの御天守の廣庭へ翔ひくだり、曲者の頸を此の嘴で八ツ裂きに破るは易からうものを。だが何事も夢ぢや。夢でなければ幻であらう。あの夜、御殿の寢所で見た夢では、わしは確かに一羽の鴉に過ぎなかつた。ちやうど今の我が身のやうに。扨て、其の夢の中の鴉も亦、嘗て此の城の城主であつた時に、鴉になつた夢をば見たと言ふ。わしの夢は、恰もあの御殿の幾重にも襖々を距てた奥行きのやうに、夢の向ふに夢をば見、其のまた夢の彼方に更にもう一つ夢をば作り、夢の中の夢の中の夢の中にも夢が生れた。わしは幾重の夢から醒め果てたものか。或ひは、未だ夢から醒め足らぬのではなからうか。だが、假にさうであるとしたところで、此の幾重にも垂れ籠めた夢の帳が盡く切り落された曉に、將してわしは此の城の城主であり得るであらうか。それとも又、生れ乍らの鴉であつたことに氣付かねばならぬのであらうか。假令、何事も一羽の鴉が見耽つた儚い鴉であつたとしても、若しもあの曲者さへ現れて來なかつたならば、わしはあの榮耀榮華の盡きぬ御殿で、何時までも氣儘勝手な城主であり得たであらうものを。わしはむしやうにあの曲者が憎いばかりでなく、今では、此の湖水に此の城が斯うして影を沈めてゐることさへも、何となう腹立たしくてならぬのぢや。───

 

※「飜すい早いか」→多分「飜すが早いか」

 

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