「存在」に就いて  古賀春江  (詩ランダム)

 

「存在」に就いて

          古賀春江

うるんだ眼から指が動いて
靑い水の滴りを掬ひあげる
深い重みが遠い所からやつて來る
微笑(ほゝえ)みながら頁をめくると
掌の上にある桃色の鳩の羽が
落ちぼけた顏をなめるやうに
昔噺の本を案内する


切斷の整理はしかしどんなに努力しても
甘いア・プリオリは猾(ずる)いよ
背廣の背中を柔らかな手で撫でられて
街頭で股は高く切れあがつた
清々しい靴音で若夏花の匂ひを立て
兎に角姿勢は先づ上々
蒼穹の紫の影もまた傳説の鏡か
古い體溫の穴を開けて
深夜の夢を組んでゆく


地球の雜音が時間に映つて
頭の毛を後から引つぱる
美しいものは何所にもある
窓は平面
雨脚をうんと突つ張つて
匂ひの眞實を嬉しがる
美しい椅子に美しい少女の貌
花瓶の葩が窓からの風に散る
少女の指が一寸動くと
空の星の一つが飛ぶ


「存在」は純粹である。

 

 

 

『美術新論』(美術新論社 1933年4月)

 

 


詩ランダム

 

 

製作  古賀春江  (詩ランダム)

 

製作 

          古賀春江

純粋な理念は純粋な行為であつた
私は昨日死んだのだ
埃のために汚れた太陽も今洗滌しなければならない
凡ての価値が両側の鳩のやうに落ちて
しかし精神がある限りそれは色づけられては見られない


儚ない夢のはぎとられた時
時間が見合をはじめる
純粋の死人の魂の暖い手に抱かれて
私はその室から街へ歩き出す

 

 


詩ランダム

 

 

神生彩史  (モダニズム俳句)

 

・新涼の玻璃に描ける白き裸女

・蟲の音をビルの巷にうたがはず

・月の潮白きランチが截りゆけり

・暖房や大き裸婦の圖を壁に

・をさならに白きページに靑あらし

・重工業白き月光をけぶらする

・白き船月の海ゆき居ずなりぬ

・詩書さぶく經濟の書と肩を組めり

・秋ふかき螺旋階段ひとりのぼる

・秋ひらくをみなのかひなよりしろく

・秋ひらく果實のかほりつちにふり

・あんなに碧い空でねそべつてる雲

・月光は魂なき魚をあをくせり

・貝のゆめわだなかあやにけむる夢

・さくらさくら日本の婢廚を出づ

・靜物の畫の翳あをし秋ふかく

・炎天の赤き花視て胃を病めり

・朝しろくミルクは果肉よりつめたし

・種子を掌にしづもりふかきわがいのち

・深海の魚のしづけさにかよふ雨

・蝶凍てゝ老ひの移民にとらへらる

・街は春地下鐵は地下をのみ行けり

・人間のいのちしづかに機にかよふ   (神風号に寄す)

・風となり機翼をうすくうすくせり      (神風号に寄す)

・とある樹に卵がかへりゐるおぼろ

・夏ふかしをんないつはりをつゝみ了へぬ

・くだものらはだへつめたし夜の薄暑

・くちびるのいつてんのあかをむすびけり

・雷とほしをさなごゼリーよりやはらか

・秋の晝ぼろんぼろんと艀ども

・秋の夜のひとづまたくみなるタンゴ

・枯園に温室あをあをと娶らざる

・冬の雨錨は海の底にある

・病院船白雲とならびしづかなる

・うなはらにしろき指くみいのちとぢぬ

・隕石にひびく聲ありいのちとぢぬ

・星ひとつ北にともりて凍てにけり

・元日の肩ほそくしてわが妹なり

・冬紅葉閨秀畵家のひとりの旅

・ルンペンに鶴かうかうと凍てにけり

扁桃腺腫れて無月をもどりけり

・產院に脱ぎし男の靴瀟洒

・くるぶしのしづけさ人を戀ひわたり

・はなやかに泳ぎつかれてひとづまなる

・夕燒けのガラスの中で眼をあらふ

・短日の化粧室(トワレ)に素顏素顏とあふ

・春ひらくひとごゑおつるみづぐもり

・春ひらくひとのたいおんはなびらに

・花ぐもりおのがつめたき手を愛せり

・夏曉なりホテル呆けし燈をひとつ

・電文のかくもみぢかき訃にあひたり

秋天の微塵ふりきて蟲となる

・信仰は暖房に神は凍天に

・胃に充つるものやはらかき夜霧かな

・花屋閑雅に英字新聞とどきたり

・炎天下わがうつそみの影靑き

・月も星も雲の上に在り大暑かな

・秋の晝をんなの眞顏釘を打つ

・たそがれのゑくぼ消えゆき雨ふれり

・春の月母がはらはらと笑へりき

・木犀の闇うつくしきゆあみかな

・病院に花々燒かれ春深き

・南京市場に素脚かがやきあふ晩夏

・香水の香のあをあをと墓地暮れぬ

・銀河ながれ砲彈みがく女の手

・滿月のちぶさ錨をぬらしたり

祇王寺の縞あざやかな秋の蚊よ

・孤獨の手竹の夕日に振りたわめ

・正月の映畵は母の肩より見ゆ

・春晝の眉墨紅棒ごうまんたる

・ビール樽ごろんごろんと夏夕べ

・冬ぬくし鶴にあをぞらゆるみつゝ

・鶴の背に冬かげらふきてゆるゝ 

冬日影むらさきふかく鶴澄めり

・月蒼く脚が地雷を踏みにゆく

・寒牡丹妹に書くことなくなりぬ

 

 

 


モダニズム俳句 目次

 

 

古き市街  瀧口武士  (詩ランダム)

 

古き市街

          瀧口武士

曇日
肉屋から腺病質の少年が出て來る

斜陽
裏門に梨が咲いてゐる
癈屋の庭から籠を持つた婦が現れる。

弦月
癈園の向ふに春がある
二階で少年が新聞を讀んでゐる。

春闇
瓦の上に熟んでゐる星
新樹の河畔で天然痘が猖獗してゐた。

 

 

 

『新天地』(新天地社 1926年2月)

 

 

 

瀧口武士 航海 その他

 

 

 


詩ランダム

 

 

航海 その他  瀧口武士  (詩ランダム)

 

航海

           瀧口武士

夜おそく、船長室の窓をあけて、彼らは小さな會話を始める

 

 

Cabinの窓に秋が來た
河岸にある舟舟舟
あの帆柱をかぞへてごらん──猫が居るから

 

 

高臺

三月の高臺は鶯曇りである
坂になつた段々の街で
午前の時計が鳴り合つてゐる
遠い市街に電話をかけると
馬車のひゞきも聞こえてくる
春になつた海邊の街から
汽車が鐘をならしてやつて來る

 

 

 

梨の花
椅子

室の裏に新道がある

 

 

 

『園』(椎の木社 1933)

 

 

 

瀧口武士 古き市街


詩ランダム

 

 

母 その他  吉田一穂  (詩ランダム)

 

           吉田一穂

あゝ麗はしい距離(デスタンス)
常に遠のいてゆく風景………

悲しみの彼方、母への
搜り打つ夜半の最弱音(ピアニシモ)。



彼女にひそむ無言。
夜を行く裸形の群れ
彼等は踊る。

愚かなる野の祭り。


自像

黃金と香気の密かな文字を刻む深夜の薔薇
背後(うしろ)をゆく靜かなる群れの中に影像を呼び
生きながら面と線とに容姿(すがた)を分解(わか)ちて印し
その時劫の鏡に天宮算命圖(ホロスコープ)を畫く舊約の時。

 

 

 

 

『海の聖母』(金星堂 大正15年(1926年))


詩ランダム

軍艦茉莉  安西冬衛  (詩ランダム)

 

軍艦茉莉

             安西冬衛

「茉莉」と讀まれた軍艦が北支那の月の出の碇泊場に今夜も錨を投(い)れている。岩鹽のやうにひつそりと白く。

私は艦長で大尉だった。娉嫖(すらり)とした白皙な麒麟のやうな姿態は、われ乍ら麗はしく婦人のやうに思われた。私は艦長公室のモロッコ革のディヷンに、夜となく晝となくうつうつと阿片に憑かれてただ崩れてゐた。さういふ私の裾には一匹の雪白なコリー種の犬が、私を見張りして駐つてゐた。私はいつからかもう起居(たちゐ)の自由をさへ喪つてゐた。私は監禁されてゐた。

 

月の出がかすかに、私に妹のことを憶はせた。私はたつたひとりの妹が、其後どうなつてゐるかといふことをうすうす知つてゐた。妹はノルマンディ產れの質のよくないこの艦の機關長に夙うから犯されてゐた。しかしそれをどうすることも今の私には出來なかつた。それに「茉莉」も今では夜陰から夜陰の港へと錨地を變へてゆく、極惡な黃色賊艦隊の麾下の一隻になつてゐる──悲しいことに、私は又いつか眠りともつかない眠りに、他愛もなくおちてゐた。


夜半、私はいやな滑車の音を耳にして醒めた。ああ又誰かが酷らしく、今夜も水に葬られる──私は陰氣な水面に下りて行く殘忍な木函を幻覺した。一瞬、私は屍體となつて横はる妹を、刃よりもはつきりと象(み)た。私は遽に起とうとした。けれど私の裾には私を張番するコリー種の雪白な犬が、釦のやうに冷酷に私をディヷンに留めている。──「噯喲(ああ)!」私はどうすることも出來ない身體を、空しく悶えさせ乍ら、そして次第にそれから昏倒していつた。

 

月はずるずる巴旦杏のやうに墮ちた。夜蔭がきた。そして「茉莉」がまた錨地を變へるときがきた。「茉莉」は疫病のやうな夜色に、その艦首角(ラム)を廻しはじめた──

 

 

 

 

『軍艦茉莉』(厚生閣書店 昭和4年(1929年))

 

 詩ランダム