ノック・バツト型「のぞき器械」 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 
見たところ野球用のバツトであるが、提げてみるとノツク・バツトよりもいつそう輕いから携帶には至つて便利なしろものである。實際は樫の棒に似せたボール紙の細工物であつて、その中腹から左右に一本づゝ都合(あはせて)二本のゴム管が垂れさがり、又、その内部の洞穴(ほらあな)には多くの操人形(あやつりにんぎよう)と數種の豆樂器との仕掛けが巧妙にほどこされてある。能書(のうがき)に示された活字に依ると、先づ左の手でバツトの中心とおぼしいあたりを握つて空中に支へ、次ぎに二本のゴム管のはしを醫者の聽診器のやうな具合に兩の耳の中へあてがひ、望遠鏡で天體を究めるまねをして此のバツトの内部を細い方から覗き込めばいいのだが、それと同時に右の手でハンドル(附屬品)をバツトの横に穿たれてある小さい穴にさし込んでカラカラと廻すことをも是非わすれてはいけない、と、これが使用法のあらましである。さてハンドルの廻轉と共にどんな光景がバツトの内部に覗かれるかといふに、例へばバツトの外側に「雪の護持院ヶ原」としるされてあるとすればこれは日活映畵「修羅八荒」の一節であつて、白雪皚々の二番原三番原を見はるかす極めてぞんざいなセツトが御城の高石垣の書割をもそなへて、レンズの作用で思ひのほかひろびろと御貴殿(あなたさま)の視界に展開されることに相違ない。そして其處には十數個の小指大の人形が忍びの覆面黑裝束でめいめい蟲針(むしばり)を白刄になぞらへて振りかざし、ひョこりひョこりと間斷なくおじぎの交換をくりかへしながら眞綿の積雪の上をどうどう巡(めぐ)りしてゐるに過ぎない。おじぎと共に手にしてゐる蟲針がせわしく上下に動くのであるが、つまりこれが亂刀飛雪護持院ヶ原の寒けき殺陣を模した演出である。中央にわだかまつて多勢の頭巾黄裝束にかこまれ獨樂(こま)のやうにクルリクルリと旋囘してゐる人形が五分月代に大髻といふ風體(つくり)から察して主役河部五郎の扮する殘香惠之介であるらしく、群を離れてぢツと兩腕をこまねいてゐるのが近頃物騒至極の神道無念流の先生陣場彌十郎、彼方の松の樹かげから三味線をかゝへた上半身をのぞかせてと見こう見してゐる鳥追ひ姿こそヒロイン江戸節お駒かと思はれる。いつ果てるともなく無變化無勝負のチヤンバラをつゞける操人形のあつけなさはさることながら、ハンドルをまわすにつれて二本のゴム管の中を通過して御貴殿(あなたさま)の耳へさゝやく此の立ち廻り劇の伴奏樂(ヂンタ)のあほらしさにはまた格別の趣きがないでもない。チンチキトントンチントントン、チントコチントコチントコトコ、卽ちひろめ屋のマーチであるが、これは二本のゴム管によつてのみ御貴殿(あなたさま)の耳へ運ばれるこそばゆいほどに極くかすかな演奏であるから、或ひはチンチキトントンと鳴く蟲がこのボール紙製バツトのなかに秘密に飼つてあつて、數日後には蟲が空腹のために死亡してしまひ再び伴奏樂(ヂンタ)を聞けないこととなるのではあるまいか、などと一應は不審を抱いてみるが當然であらう。だがこれこそ數種の豆樂器の必死の活動(はたらき)によつて釀されるシンフオニーであると心得て置くがいゝ。

最近に新宿驛前の緣日を歩いた人はこのノツク・バツト型「のぞき器械」を賣つてゐるもう六十に近いきさくで漂逸な爺さんを眼に止めたであらうが、頭がつるりと禿げおはせ頰鬚とあご髯とをきれいに剃り落した𤏐徳利型(かんどくりがた)の面相が鉈豆煙管(なたまめぎせる)をパクリとくわえてめくら縞の着物のゑりにさゝつてゐるありさまを見るにつけても、この人こそこの未來派的舊式玩具を賣るためにのみ生れて來たことに相違ない、などと私の如き劒劇フアンがつい懷しさに涙ぐましくなつてしまふ。
「おい、爺さん、阪妻はあるかい。阪妻は。」
「オーライ、無明地獄に人形師、えーとそれから幕末、亂鬪の巷、毒笑、こゝンとこのが素浪人。」
「多味太郎の千葉周作はどうだ。」
「あツ、旦那、そいつを未だ封切らねぇンで……。」
當分のうち宣傳のために破格大安賣りの一本二十錢のところを更に十二本揃へて一ダース一圓といふ徳川な買ひ方があり、場所は新宿驛前の戸塚停留所に寄つた大道であるから、若し御貴殿(あなたさま)が武蔵野館のくらやみの中で西洋映畵の石鹼の泡に食傷したなら、毒消しとして、又、寢ながら樂しむために二三本なり一ダースなりを求めるといゝ。(完)

 

 

 補遺──仔細に檢査してみると、バツトの腹に針の溝ほどの小穴が無數に穿たれてあるが、これは筒の内部の闇を照らすためのあかり取りの窓である。特製品といふのがある、一本七十錢、但し、これにはあかり取りの窓が穿たれてない、といふてもカラカラとハンドルを廻すと同時に内部に豆デンキがともるやうに裝置してあるから、それには及ばぬのである、尤も別に電池を求める必要があるけれど……。いろとりどりの色紙細工が豆デンキの光を浴びるから、興味深い照明作用をうかゞふことが出來る。消燈した寢室のくらやみで弄ぶに適當であるが、爺さんの店にはいつも二三本しか用意されてない。そして、この方は一向に賣れ行きがないさうだから、値切れば三四十錢にまけぬとも限るまい。又、もとより玩具ではあるが、野球選手がサツクの中へ實用のバツトと共にこのノツク・バツト型のぞき器械を忍ばせて出場し、自分の打撃順を待つてゐる暇に時々ハンドルを廻してみるのも乙であらう。

 

 

 

 第九次『新思潮』22号 昭和2年(1927年)2月

 

稲垣足穂の周辺 目次

 

 

秋と病める少年 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 俊一郎は岬の突端に建てられた赤い屋根の家で、哀れにも夢み勝ちな腹膜炎を患ひつゞけてゐたのです。そしてそのゆへに此の不幸な少年の心の悲しみは、もう長い年月、水色でありました。病室の窓のほとりに其の涯は空の極みと相寄る海を眺めながら、早く秋が來ればいゝのにと、俊一郎は恰も未知の戀人をでも待つかの如くでありました。──秋になると水中の海草と雖も亦紅葉するものかしら──。すると一夜、物凄い颱風が彼の住む岬の突端へ襲來したのです。恐ろしい風雨の叫びと浪の轟きとに心をふるはせながらも、これは秋の來る前觸れなのだと夜どほしまんじりともせずに其の夜が果して自分の願ふやうに爽々として秋らしく明け放たれるのを待ち兼ねてをりました。そして明け方近くあたりが稍鎭つた頃に、うとうととして眠りといふ悲しい淵へ底深く身をも心をも沈めてしまつたのです。
 ──島が流れる、島が流れる──人々の斯うした奇異な呼び聲に俊一郎の夢は破られました。──お母さん島が流れるのですつて?──母親と二人の召使達とは俊一郎が未だ眼を覺さないうちから窓のところ集つて海の方角を指さしてゐたのです。それは昨夜の暴風雨に吹きちぎられたいづこかのかずかずの小さい島々が海流に乗せられて行衞も知られず押流されてゆくといふ不思議な出來事でありました。そして又、すでに人の世が靜澄な秋の朝であつたことは俊一郎の昨夜の想像の如くでありました。
 藻屑のおびたゞしく打ちあげられた波打際に集つた大勢の村人達は口々に聲高く──島が流れる、島が流れる──と呼び交はして、秋の最初の朝、俊一郎の夢をも搖り覺ましたのです。母親に手傳つて貰つて漸く床を離れた彼は、窓のほとりの籐椅子に腰をおろして一わたり海の上を眺めわたしました。或る三角形の島は埃及のピラミツトに似てをり、又駱駝の背に似た二つの瘤を持つ奇妙な島もあつたのです。月のやうにまんまるい島、星のやうに尖つた島、それ等の島々は雁行してあとからあとからと無數に俊一郎の眼の前を流れ過ぎてゆきました。

 ──お母さん、今日は海の水がまるで河のやうに早く北から南へ流れてゆくのですね──。さうね、妾も先程からそれを不思議に思つてをりました──。又、岸邊で今日の出來事に關して村人達の取り交はす様々な會話をも手に取る如くはつきりと耳にすることが出來ました。年老いた第一の漁夫は言ひました。あれ等の島々は彼れ自身もつと若つた日に捕鯨船に乗つて眺めたことのある千島列島に違ひない、と。すると年老いた第二の物識が此の説に返對したのです。千島列島の島々があのやうに小さい筈はない、あれ等の島々はきつと陸前の松島の附近に在つたものに違ひない、と其の老人は言ひました。
 まことに今こそそれ等の島々に住む人々も其の家も見當りませんでしたが、それは恐らく昨夜吹きあれた颱風の際に怒濤のために洗ひ去られてしまったのではなかつたでしやうか。
    +   +   +   +
 物ごとに倦き易い人々は斯うした珍らかな出來事にまもなく退屈を感じたものらしく一人去り二人去り、やがて岸邊には獨り物靜かな秋の日が傾てゐたのです。しかしながら俊一郎は猶ほも窓のほとりの籐椅子に腰をおろしたまゝ、流れてゆく島々の行列を眺めつくしてをりました。するといよいよ黄昏の時刻が迫つて來て、今將に水平線に沈まうとする太陽は其の朱の豪華な姿をば三倍ほどにも大きくしたのです。そして岬の突端からちやうど其の太陽が沈まうとするほとりへかけて、流れてゆく島々は恰も庭におかれたかずかずの飛石の如く行儀よく並んで動いてゆきました。又、それ等の島々は赫灼とした太陽の光線を浴びて恰も皆一勢に火炎をおこしたものの如く、──あゝ美しいな──と病弱な俊一郎も思はず感嘆の聲を洩らしたほどであつたのです。さて、其ののちどれ程の時刻を經てからであつたか、ふと彼が我れにかへつた時に、まアどうであつたでありましやう。今の今まで彼自身が眺めてゐた其處に沈まうとする眞紅の太陽は、いつのまにやら今將に其處から中天へ登ろうとするそれこそ萎れた花のやうに色蒼ざめた滿月であつたではありませんか。もちろん、あたりもすでに仄暗く空にはまばらな星屑さへも瞬き始めてをりました。そして此の時、その蒼ざめた滿月の紫の光は、かずかずの島々の上を恰も物哀しい笛の音の如く流れ渡つて、或る怪しい言葉を俊一郎の心に傳へたのではなかつたでしやうか。
    +  +  +  +
 或る夜、俊一郎は彼の住む岬が陸から離れて海の沖へ流れ出した夢をも見たのでした。そして數ヶ月ののちに、彼は病氣が急に重くなつて此の世を去つてゆきました。

 

 

第九次『新思潮』9号 大正14年(1925年)10月

稲垣足穂の周辺 目次

 

 

 

 

田中武彦  (モダニズム短歌)

 

・いちども冠(き)せぬベレツトといふ帽子それも柩(ひつぎ)に入れてやりたり 

・樂しげに落語聞きをるこの男がつねにイデオロギイを口にする男か

・夕明(あか)る海を見おろし見おろして居留地街にのぼり來れり

・羅馬のコルシアムを思はす街を歩み蔦におほはれし窓をわれ見き

・冷えびえしき聖堂の奥やうやく暗くマリア、ヨゼフの光背(ごかう)のみ見ゆ

・ステンドグラスの高窓ありて夕日光あはく透りをり隈にはとどかず

・聖堂を出でてあかるし足もとの冬草なかに蒲公英咲けり

・聖堂を出でて間もなきわが後(あと)よりオルガンのおと堂よりひびく

・通詞(つうじ)屋敷蘭人屋敷と見つつ來て花園見たり甲比丹(かぴたん)の花園

・ベランダに遊女いでてをり阿蘭陀船いまゆるゆると入りくるところ

・井戸のべに臘梅ふふむシイボルトの荒れし家址いまだものこる

・アフリカの荒き廣野を知らずして檻の日向に仔獅子遊べる

・ここにして見ゆるインクライン眼の下にロオプ光りて舟のぼりをり

・ゆうかりの高枝にしげき蟬のこゑ再び暑さ至りつるかも

・松の群(むら)すかしてテニスコオト見ゆ女學生ら涼しく試合始めをり

・さやらぎてこぼるる鳳仙花の實を髣髴す頰紅き少女らの愉快なる笑ひ

・ゆうかりの大樹の梢(うれ)のゆれなびきさむざむとして夕ぐれにけり

・目に見えて霧の流るる夜はさむし自動車(くるま)のうちに身をうづめたり

・窓外にけふの一日も昏れゆきぬまたゆうかりが搖れてゐるなり

・さ夜更けて妻は眠りぬ家近く夜間飛行機の音きこえ來て過ぎぬ

・小やみなきジヤズのレコオド病院の竝びの端(はし)のカフエよりか

・二月とも思へぬ溫(ぬく)さ窓(と)の外のテニスの音を妻も聞くらむ

・ここをいでむ相談に今朝は朗かなりシクラメンの鉢はもちて歸らむ

・高塀に沿ひてひた走り來し自動車(くるま)大き曲(カアブ)なし門前にとまる              (刑務所)

・向きあひて囚人ふたり手も休めず鳩の玩具にペンキ塗りゐる        (刑務所)

花麒麟の鉢花ひらくこの緣に三月らしき風の吹きよる

・原始林の暗きつめたさ感じをれり奈良の町近き山とも思へず

・新國道の坂のうへよりロオラ・スケエトの童(わらべ)二三人滑りてくるも

・のぞき見る洋風庭園の芝のうへ人をらずして球を打つ音

・電車より見おろしてゆくインクラインに夕靄たちて一列の鐵の輪

都ホテルの屋上に出でてこの晴れし夜空のもとの大き町を見る

・まれにゆく馬車に流るる夜の雨やうやく更けし哈爾濱のまちを

・中央寺院(サポール)の塔のみどりの濡れいろのもうあたたかき晝の雨なる

・圓屋根を二つならべて空のもと猶太(ユダヤ)の寺かどつしりと大きく

・つづけさまに彈丸(たま)はうちたれ銃身の灼けて曲りて陽炎だつを

・高臺も道路もなべて黄いろなる若芽の街なり海へ傾斜す

・春すでに芽ばえ黄いろきいちめんの明るきままの原に日は果つ

・大陸に一つの沼が湛へ居り刻(とき)を忘れしごとくしづかに

・水盤の金魚あふむけに浮べるなべ靑き婦人服には吹く風もなき

・もはやしづかに月のぼり居り磨かれて靑く輝く硝子窓より

・うつくしき少女をならべ清(すが)しき行(ぎやう)おこなふ如く林檎など配(くば)る

・オカリナは叫ぶが如く鳴り出づれ狭しと思ふ街の口より

・空の雲流れつつあり晴ればれとわれは切子(きりこ)の皿みがき出す

・蜜蜂は巢箱のくちに集りて花園はけふも氣まぐれの雨

・砂原はおのれ容(かたち)を夜毎に變へ沼なる如く朝をしづもる

・馬糧供給終りて歸るトラックのうへ旣に日暮れて月の光(かげ)さす

・己(し)が影を金にかへたる人のうへつくりごととは思はれぬなり  (プラーグ大學生)

・罌粟のはな濱いちめんに照り映えて海は濱よりはるかに高し

・靑空は低く傾き野はすでに眞白き蝶の生(あ)れそむる頃

・神々の危ふき性(さが)を咎むれど風やはらかく草にそよぐを

・大砲の筒(つつ)がまぶしき春となり神馬(しんめ)は白くきれいな毛竝

・とよみ來(く)る朝方にしてまどろみぬ常のことなれば美(うま)し夢も見ず

・かすみつつ黄に墜(お)つる日を背のびして遠望み居りわがいのちとも

・うつせみの疲れ兆(きざ)しくるいとふべくは夏斷(けだち)のこころはや頻りなる

・たちまちに春は來(きた)るとあわただしく明るき雨の宵(よ)ごと降りつつ

・法則はただしく季節(とき)を刻(きざ)むゆゑ痴愚なるわれのひとしほ汗ばむ

・モルモツトなど他愛なく殺しそのあとは眞顔になりてものを食ひはじむ

・砂時計の硝子に映(うつ)る秋雲の速き動きのまたなくやさし

・秋ふかき空に見たるはにぎやかに一方の隅を指してゆく鳥

・すみずみまでまことに靑き空を入れ幸(さち)呼ばふごと菊ひらきたり

・黄昏のいろ消えしかば庭の池靑く濁りてわがまへにあり

・高くゐて安(しづか)に翔(かけ)る鳥あれば天の蒼さがわが肌膚(はだえ)刺す

・暗き夜となる氣配にて二つ三つ椿のはなが地(つち)に落ちたり

・靑淵はなほ冬のいろを湛へつつまことに白き花浮かべたる

・瑟として風の音に鳴りいくばくもなく昏(く)れ入りし空が璧玉(たま)の如くあり

・風に偃(ふ)す低木のありて谷あひのあるところは空が瑠璃ふかく澄む

・近づきてその靴音がこの室(へや)の扉(と)の外に來てまた停(と)まるなり

・眠らざるこの夜半に見て月光が妖(あや)にまぶしく室(へや)にさし居り

・けだもののむくろは骨もあらはにてすでにむらがる蠅だにもなし

・かがやかぬその夜の月を怪しみて陷穽(おとしあな)には花敷きしとぞ

・夜となれば靑き焰の立つといはばまぼろしめけど肉の厚き花

・遠ぞらを群鳥(むらどり)の行くかげ白くしばし電車の窓に映れり

・丹椿(につばき)の花にあゆみをとどめ居り結界を出(いで)ぬ僧の如くに

・掌(て)にのせて椿の花の赤きころ晴れ澄める日のやや傾きぬ

・月夜となり冷えいちじるし庭檜葉の光こまかに搖れてゐるなり

・夢に似て山に日の照るきのふけふ水は激しくしぶきをあげつ

・枝重くくれなゐの花ひとつ咲き又ひとつ咲く暖かき國

・瑠璃色の珠(たま)なす草の影うつし一夜(ひとよ)の雨は土(つち)にたまれり

・小山なす砂丘のかなた海ありと思はば何か迫りくるもの

・大木のいてふもみぢば空に鳴り輝きて散れり風吹くたびに

・濱には霧いまだ殘れり午前十時の光ながるるこすもすの花に

・雨になる氣配の中に羽搏ける鳥かと思ふ近き物音

・うしろなる灰色の虹も刃の如く心つめたくなりてゐたれば

・山風はかくし自由に振舞へばげに壯觀なり樹々の彈力

・戞々(かつかつ)と歩めば遠き突堤(とつてい)のかげさへあらぬ石疊のうへ

・おとろへのしるきは言はね消えゆきて瞼(まぶた)に殘るいくつもの虹

・いつの代ともわかぬ月日の經(た)ちやすしひと山かけて雪つもる頃

・あたたかく雪は林檎に降り來(きた)る幸福の香(か)の漂(ただよ)ふばかり

・靄はれて驚くばかり峽(かひ)ふかし藍をたたへて水おと無きを

・雪割りていちはやく瑠璃の花咲けばしらじらしい嘘(うそ)をまた聞いてゐる

・神々の樂(がく)鳴りそめて清(さや)けきにまだ椿などはどこにも咲かぬ

・靑空は低く傾き野はすでに眞白き蝶の生(あ)れそむる頃

・山にして何いぶかしむいくたびか鳥など行けば空にも路(みち)あり

・蕎麥のはな明るく咲けり混沌と蘇(よみが)へりくる記憶のうちに

・眞晝間の野はひそけくてわが視野に入りくる花がやさしかりけり

・夜の底に音を激しく雨降れり人の怒りはわれにかかはる

・言絕えて歩みつづくる山のなか近き木立に鶯啼くも

・おそろしき手觸りにさへ冷えびえと火を翳(かざ)したる古き燭臺

・くれなゐに濡れ伏す花をつねになきかなしきものと見るやこの雨

・さむざむとさ霧の底に立ち竦(すく)みその葉を鳴らす灌木の群

 

歌集『暦日』『瑠璃』より


モダニズム短歌 目次
http://azzurro.hatenablog.jp/entry/2017/05/30/054929

 

 

http://twilog.org/azzurro45854864
twilogで歌人名または歌集名で検索すると、歌をまとめて見ることができます。

 

 

海生動物 4  遠藤忠剛  (稲垣足穂の周辺)

 

 ……薫の高い白檀の林の生えた龍宮の門前の庭をめぐつて外界と境をして小川が流れてゐる。そこには黄金の橋が懸つてはゐるが下は溷(どぶ)の流れである。半月形をしたその橋の黄金の階段に腰をかけた二人の侏儒が、柔かな小人革の赤靴をはいた兩足をぶらぶら動かしてゐる。海底の暗がりへまるい光の輪をなげる金色の龕燈を銘々側に置いてゐる。
「わしは背中の腫物(もの)が今宵、特別にかゆいのじや。
「わしも又そうじや。じやがなんぼ掻いても、初まらぬことじや。
「わしはかゆい。かゆい。
「朝になるまで待ちやれ。朝日にうみも消えやう。夜が明けるまで賭けて一つ骨牌を遊ばぬか?
「わしはかゆい。かゆい。もうかゆうて耐らぬのじや。
「我慢のない奴じや。猫を水甕へ入れて見せようか。それとも赤い百合に火を點けて見ようか?
 その時悲しい顔した二人の下の黑い溷(どぶ)の流れに、──(靑い海の底では汚い溷さへ綺麗に見える!)──OTOHIMEの化粧室から桃色の捨水が一すじ交つて流れて來た。!!突如二人の側の龕燈の光が搖れた。黑い影が二人の頭上を過ぎたかと思ふと後の白檀の林中で凄じい生木の折れる音がした。──貪婪者が狼戾(らうれい)としてこの都を襲つたのである。忽ち奥で女官達の悲鳴が起つた。一分──二分──三分──そして妖嬌(まよはし)の龍宮(セラーリオ)の深所に於ては、凡ての女官が殺された後に、崇高(たか)くおほろかに、夢よりも美しかつたOTOHIMEは淫佚殘忍な悲しい彼のために、悲しき裸體のまま、化粧室から引きづり出され世にも恐ろしい姦され方をなされてからその血みどろの體を、化粧の後で桃色の美しい柔かな露(あら)はなままにお凭れになる筈だつた濱床(クツシヨン)へ投げつけられて死んでしまはれたのである。
 ……龍宮(セラーリオ)は靜まりかへつた。あらゆるものをその魅惑に醉はした「彼女」のからだは眞紅な血の花を咲かして滅烈に粉韲された寂莫(じやくまく)たる部屋の裡に一人倒れてをられた。その墓場の中にたゞ一つ壊されずに殘つた丈の高い香爐からは靜かに麝香の薫りが彼女の引きむしられた右の乳のほとりにたゆたうてゐたのであつた。──

 彷徨へる悲しき海の貪婪者はかくして一切を殺戮して行つた。終には彼のために海は滅んだ。その力もその心もこめて共に滅亡したのである。彼は支配した!! 海を支配し得た喜びは彼の眞實の心に毫も感じなかつた。赤鱏はその爛々たる眼を彼の内部(もう外部への必要はない。)へ輝かして虛無(むなしく)なつた海を游いでゐた。ある日彼の戰鬪欲を更に永遠に外部にも新しくそそつたのは海以外の世界が海へも浸潤してゐることをほのかに感知したことだつた。ああ海以外にまだ世界がある。しかし彼は海で生れた動物である。海から外へ出ることは出來ない。──彼には羽がない。──肺臟がない。
 ある深夜、大洋の眞中に大暴風雨が雷火を持つて荒れ狂つた。電光はせんせんと黯淡たる天空から凄寥たる海底へまでも靑い恐龍を幾千となく疾らした。その靑光に照らされて海底から巨大な赤鱏が浮かんで來た。深夜に白馬を躍らす暗黑の洋上へ、篠突く雨の中へ彼は現れ出た。
 匐然(くわうぜん)たる洋上の雷鳴と共に突然赤鱏の體は、(海中へ下りた不幸な)パラシウトのやうに眞皎な波濤の中へなみを蹴つて大きく展ろがつた。
 そして海水をからだから瀧のやうに振り落し乍ら空中へ浮び上つた。雷が天も海も摧けと鳴る。電火が空を躍り狂ふ!!彼は電雲の中に眞赤な飛行機が停止してゐるのを見た。彼はそれへ眞黑な水で黑くなつた惡魔(まがつみ)の岩茸のやうに、死の巨大な外衣(かつぎ)のやうに覆ひかかつた。
 この大暴風雨の中を眞赤な飛行機は眞紅に燃えながら巨大な惡魔の赤鱏をのせて、雷電にその肉を燬きただし乍ら、臭氣粉々として暗黒の天空を突破して行つたのである。──

 悲しい赤鱏の話ここに終る。

 

 

 ※原文全体にいくつかの単語に傍点のあるものがありましたがここでは省略しています。

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

稲垣足穂の周辺 目次

 

 

海生動物 3  遠藤忠剛 (稲垣足穂の周辺)

 

 我等の悲しき暴君は己れにも他(ひと)にも分らぬ恐ろしい孤獨の悲惱を抱いてひとり海に生れながら、海に棲む者の群を遁れてその力のままに有限の海に無限無終の慘忍三昧に耽つたのである。魚を、魚を、限りなき魚を幾代となく彼の種族は悲しく貪り啖ひ飽くこと知らず嚙み碎いて來た。彼に殺された魚だけでも茫莫たる大洋の海面にその腐つた腹を一杯に浮べたが、その體は腐つては靑い氣體になつて立ち上りそのためにただ空はますます瑠璃碧巖に美しく澄み恒るばかりであつた。
 《空が空なら己も己だ》恐ろしい彼は執拗く海を彷徨ひ𢌞つて殺戮した。そして終に今までの海の支配者たる鱶と衝突した。二人の爭鬪は深海の、太古の寂莫の中に、音もなく物凄く生死を賭して行はれたのである。鱶はその恐ろしい牙(は)で彼の柔いからだをづたづたに切りまくつた。その恐ろしい惡魔の口を搖曳する屍衣の様にひらひらと巧みに遁れては、彼はその毒刄の如き尾を突き立てた。
 どちらも瀕死になつてしまつた時、海の貪婪者は得體の知れぬ自分の孤獨の心を稻妻のやうに見て己れのために再び恐ろしい力を振ひ起して鱶の體へその尾の鋭い棘を突きさした。──終に斯くしてこの音のない寂莫たる格鬪の結果鱶はその腹を突き破られ刳りちらされて棒立ちになつて流れてしまつた。

 流石に赤鱏も瀕死の重傷を負うて深い洞穴に幾日も幾日も寢てゐなければならなかつた。
 深い眠りを寢た。そして悲しい淋しい彼は絕えず美しい壯麗な夢に耽つた。この空幻の郷(さと)を戀ふ哀れな妖怪は夜ふかき閻羅の海底にあつて輝かしい都を幻想してはみたが、時々刻々推移する彼の心には一つとして定まつた都の姿は出來なかつた。しかしその不思議な孤獨の心を蠱惑するほど輝かしい都がたとひ夢の中にでも作られるのだらうか?己れ以外の何物にも方向を持たぬ悲しい心!  ? さればその孤獨の神秘を何で開かう? 海の貪婪者の永劫にわたる苦しみ! しかしそこに湧くその素晴しい力は?!
 彼の體は元へ癒えた。再び彼は永劫に倦まざる逆殺の旅へ凄じい勢で狂奔し去つた。
 再び海の生物には恐ろしい寒慄が復活した。──それでも心の支配者であるOTOHIMEの住む龍宮だけは依然として秘(みそ)かな平和を壟斷してゐた。
 美しい龍宮は深い水の底にあつて、靑い水の中にその宮殿の古い甃は苔に覆はれたやうに靑かつた。黎黑の圓柱の所どころから眞珠の白い泡が細 幾條も立ち上がつてゐるのが、その靑い龍宮を取り圍んだ廣い庭に密生した柳の樹の間に恰も宮殿全體が白い湯氣を上げてゐる様に──冷たい水の底にあつてここだけは暖く樂しいやうに見えたのである。……全くこの龍宮は何千年の往昔から樂しく海の心を支配しては居た!!

 

 

 ※「執拗く」の「執」は原文では手偏の「執」

 ※「泡が細 幾條」は、手元のテクストが1マス空きになっていました。多分「細く」

 海生動物4へ続く

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

稲垣足穂の周辺 目次

 

 

海生動物 2  遠藤忠剛 (稲垣足穂の周辺) 

 

 

        B
 私の母は生れた時、その嬰子(あかご)特有の赤い頭は公方柿のやうに尖り、またその眼は櫧子眼だつたと云ふ。出産祝ひに親類の畫家が蛸の繪を描いて送つて來たので、私の母の母は産褥(とこ)の中で齒がみして怒つたとか云ふ話。──

 

        C
 私はこの夏、八月三十一日、母の誕生日祝ひに間に合ふやうに旅行に行つてゐた西の涯から東へ山陽本線をがら空きの特急に乗つて飛ばしてゐた。──車中には私以外には白いヘルメツトを棚へ載せた眞白づくめの一人の紳士がゐた。直ぐに友達になつた。
《私は北海道から千嶋、樺太の方へ密獵に行くのが好きでしてね。……(水豺(あざらし)や膃肭臍を獲る痛快な話の後で──)一度蛸伐りをやりましたよ。馬鈴薯を盗みにくるのですよ。みんな連れ立つて手をつないでくるのです。人氣がすると海へ直ぐ滑つて逃げ込まれるやうに彼等はそのやつて來た砂の上をぬるぬるにして來るのです。私達はその砂の上へ新しい砂を撒いて容易(なかなか)には逃げられぬやうにして一發鐵砲を打つて見ました。周章ふためいて逃げ迷つてゐるを棒で毆り殺しました。……

 


        D
 母の誕生日に方々から來てゐる海水服のいとこ達の一群に銘々魚杈(もり)を持たして私はその先途になつて海へ魚を突きに行つてゐた。出入りの魚松に會ふ。
「ャァツ! これは大勢凄いお揃いで、──突きに行くんですか? 坊ちやん、しかし波戸先へ案内しちやいけませんぜ。向ふには化蛸がゐましてね、突きに行くと急に酒樽みたいに頭が大きくなるのがゐるんですからね。──

 

 

        E
「こいだけ澤山ゐりや出ても面白いよ。ねえ。
「たいて喰べるさ。
「あたし蛸のお化けが見たいわ。
「みんな行かうぜ。
 然し波戸先へ行つた時、眞蒼になつた。
 半裸體の女の水死人が上つてゐる。白い背中に紫色の大きな迹がある。一人の見物人が皆に敎へてくれる。
「なあにね。よくここにはあることでね。まさか私は化蛸のことなんか信じないが、──この女(ひと)は近頃裏の別莊へ來た人でね──今朝も一人で游いでるのを見たんだが──きつと黄貂魚(あかえひ)に刺されたのさ……

 

         F
       F  F
 彷徨へる海の貪婪者(どんらんしや)、赤鱏(あかえひ)の物語り。──

 たとひ小さな生存の爭鬪が絕え間なく隠されてゐたにしても海の中は神の造つた儘に美麗な平和が支配してゐた。吃驚(おどろく)ばかり美しい赤珊瑚の林の中に流れ行く靑い潮に乗つて貴族的な鯛のむれが赤金の鱗を眩暈(めくる)めくまで輝かして悠々と遊んでゐるのを潜水服きた男が思はず見とれてゐると、突然その背後へ茶褐色の凶惡な彼が躍りかかつてその劍(つるぎ)のやうな尾の鋭い梟毒の棘で潜水夫を一瞬にして殺してしまつた。そして彼はこの悲しい潜水夫を瑠璃いろ空とつないだ管(くだ)を嚙み切つて再び死の戸板の如くがばがばと靑い水を攪き立てて妖精(もののけ)のやうに游ぎ去つた。

 ……しめつぽい夜の匂ひが開いた窓から忍び込んで來てもその窓に凭れて薄紫に暮れて行く沖を見つめて待つ若く美しい新妻の所へは哀しい潜水夫の姿は二度ともう歸らなかつた。

 紫の花をつけた濱蜿豆に圍まれて、靑い海を濶々(ひろびろ)と眺める高い海角の上に、村一番に美しく村一番に働き手であつた若い彼は白いペンキ塗りの小さなお伽噺のやうな新屋を建てゝ昨夜その可愛い戀人と結婚したのではあつたが──そして今朝その新妻の綺麗な小さい足を飾るために深い海へ赤い心の珊瑚をとりに出たのではあつた。
 海角の上の、その家のまはりの靑綠の夏草はやがて黄色くなつて淋しく顫へはじめ、そして蟋蟀がその薄い羽を哀しく擦り合はし出すと戀しい男の消入つた海の色は漸く眞夏の激しい紺碧から空色にうすれた。──麓の村では老媼たちは小春日和に絲車を𢌞し乍ら無花果を喰べてゐる若い娘たちに、
《綺麗なステモンさんはきつと海の白い人魚に魅入られたに違ひない。》
 と風評(うわさ)し始めた。黑い喪の悲しい新妻は靑い睫を泪でぬらして、身も心も吸ひ込むやうなあを空を見詰めて(マリアさま……マリアさま)と祈り續けたが美しい秘色(ひそく)の空には秋の赤い蜻蛉が無數に飛び𢌞つてゐるだけだつた。──
 麗らかな眞圓(まんまる)い金色の月がすずしい風に吹かれて紫の海の涯からしづしづと登り出した時彼女はその家の前の絕壁から底の見えるほど清澄な、靜かな夕暮れの海へ悲しい身を躍らしたのである。!!突然、彷徨する貪婪者、赤鱏がその底から浮び上つて、落ちて來る彼女のからだが水につくかつかぬ一瞬時にその劍のやうな恐ろしい尾を彼女の眞白い腹に突き刺したまま、女に纏ひついて巧みに海底へ深く沈んでしまつた!!

 

 ※《 は本来、二重 ( なのですが、それを作ると文の位置がずれるので、《 に換えています。

 

海生動物3へ続く

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

稲垣足穂の周辺 目次

海生動物 1 遠藤忠剛 (稲垣足穂の周辺)

 

稲垣足穂編集『文藝時代』「怪奇幻想小説特集号」(1926年8月)に掲載された遠藤忠剛の傑作。一種の怪獣小説? ご高覧あれ。

 

 

         A
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 何時の日から、又なにのためだかしらぬ、兩肩の筋肉が巖疣瘤(こぶ)となつてもりあがつた毛だらけの眞黑な大男が三里四方もある大監獄の中に入れられてゐた。
 眞黑な大男は何を呪(のろ)つて好いのか解らなかつたが午後四時から深夜まで、ウワ━━ウルルル!!ウワハ━━と野獸のやうに咆哮しては、その二百磅の巨軀を眞黑い鐵壁へ分銅のやうに投げつけた。
 肉が衝突する時鐵壁は鐵砧のやうな大音響をたてた。血ににじんだ彼の體はその時獸の匂ひを發した。
 深夜巨軀の最後の飛投を終へると彈機で撥ね飛ばされたやうに麥稈の堆へ仰向きにぶつ倒れては又嗚咽しながら氣違ひのやうに激烈な自淫を行ふのであつた。
 隣房の囚人は皆氣が狂つて遠くへ移されてしまつた。
 それで何年も前から彼の周圍、幾百の監房はたゞ蜘蛛が網(す)をはるに任してあつた。
 朝になると高い處にある、鐵柵のはまつた小さな牕から疲れて睡つた彼の顔へ朝陽(あさひ)が射し込む。──やがて西の涯へ追ひやられた氣の狂つた囚人共の喚き立つ聲が小さく聞えてくる。昏々と睡つた彼と、追ひやられた多くの囚人共と、そしてこの監獄との間に不氣味な空氣がかくして日ごと日ごと嵩ばつて行く。━━
 この不氣味な空氣の中に毎朝新しい斬首刑吏の靴音が聞えてくる。この眞黑な大男の首を斬るものには二千萬磅の償金が與へられるのである。しかし如何に自分の力に醉ひ痴れた人間(をとこ)でも彼の凶猛な顔を、彼の血潮を以て殷黑(あかぐろ)く風味づけられた鐵壁を前に見ては戰慄して畏れ縮(ちぢ)かんで逃げうせた。
 ある夕、鋸で腹を挽かれ、足を鍬で犁かれてゐる死刑囚の斷末の呻きが遠くからほそぼそと聞えてくる時、彼は何時ものやうに出口を捜(もと)め乍ら咆哮してゐると、突然、鐵柵の塡つた小さな牕から暗い監房へ一條の赤光がさつとさしこんだ。それは光ではない!!何萬何億とも知れぬ小さなあかこが一面に光の中を空氣の中を泳ぎこんで來たのだ。
 彼の全身は爆發するほど激怒した。怒りに震ひながら口をかツとあけて、あかこの光を飲み込まうとした。刹那!彼の體は强直した。口をがあつと開けた儘、──振り上げた兩腕は蟹の蟄(つめ)のやうに硬くなつて──胸は襲ひかゝるゴリラの様に反り返つて──毛だらけの眞黑な全身はわら床から斜めに小さな牕へ、空中を、その赤光に沿うて引き上げられた。そして(それぞただ神のみ知る)この鐵柵のある小牕から外へ彼は投げ落されたのである。

 はつと我に歸つた彼はまつしぐらにましらのやうに高い石の壁を駛け上つた。
 下には壁に接して一臺の眞赤な貨物自動車がおいてあつた。一人の憲兵がハンドルの側でまどろんでゐた。飛び下りるや否や憲兵を鷲捉みにして石壁へ叩きつけた。憲兵は白い石の壁へ柘榴のやうに爆(はじ)けついた。

 前方には光を吸ひ込んでしまつたやうな眞黑な倉庫が立ち竝んでゐた。その倉庫の間には炳炳(ぎらぎら)するほど眞靑な海が見えてゐた。そこへ彼は恐ろしい唸りを上げて恐ろしい速力で自動車を飛ばした。
 二十年間無駄に見張つてゐた、高搭上の老いたる番人は忽ち警鐘を亂打した。
 監獄の門は直ちに開かれて二人の警官が自動車に乗つて彼を追撃して來た。
 あはや自動車は倉庫に衝突しようとした時急𢌞轉して左の路次へ逃げ込んだ。やつぱり眞黑な倉庫の列んだ海岸通りだ。
 警官は短銃を亂射した。ために眞赤な自動車はパンクしてしまつた。倉庫に挾まつたカフエの前だ。自動車からそこへ彼は虎のやうに身を躍らした。
 テエブルや椅子は粉微塵になつた。多くの男女は悲鳴を上げて逃げ惑つた。
 いきなり彼は──(無髯の伊達者時代、彼の行き狃(な)れたカフエだ)コツク室へ躍り込むと驚くコツクを鐵鍋で毆り倒して下水の蓋を引き上げ、そこへ飛び込んでしまつた。
 追撃して來た警官は蓋を滅茶苦茶に蹴つて「開けろ、開けろ!」と怒鳴つた。「開けないと錠をおろすぞ!」
 彼は忿怒した。「よおし!!こつちからも錠をかけてやらあ──」
 上と下から同時に錠は鎻(か)けられた。

 ──うしろに直ぐ海がある家に特有の下水道で他家(よそ)の下水口と連つてはゐない。逃口はたゞ海へ一つである。然し海上には旣に多くの警官が見張つてゐる。彼は海草の生へた靑い石段に腰を下して夜になるのを待つた。──

 !!夜になつた。
 眞赤な、血のやうな月が、血の雫を滴たらし乍らガクガクと音を立てゝ登つた。
 恐ろしい滿潮だ。
 海水は下水道に溢れ漲つて來た。その水は月の光で蒼かつた。小さな美しい黝い偏片魚(ひらうを)がたくさんその中を游いでゐた。空腹になつた彼は月光を攪き分けて、それを捕へては喰べた。──

 ……月影に靑い水は益々流れ込んだ。
 彼は一匹の眞赤な大章魚になつてゐた。

  

海生動物2へ続く

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

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