海生動物 1 遠藤忠剛 (稲垣足穂の周辺)

 

稲垣足穂編集『文藝時代』「怪奇幻想小説特集号」(1926年8月)に掲載された遠藤忠剛の傑作。一種の怪獣小説? ご高覧あれ。

 

 

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 何時の日から、又なにのためだかしらぬ、兩肩の筋肉が巖疣瘤(こぶ)となつてもりあがつた毛だらけの眞黑な大男が三里四方もある大監獄の中に入れられてゐた。
 眞黑な大男は何を呪(のろ)つて好いのか解らなかつたが午後四時から深夜まで、ウワ━━ウルルル!!ウワハ━━と野獸のやうに咆哮しては、その二百磅の巨軀を眞黑い鐵壁へ分銅のやうに投げつけた。
 肉が衝突する時鐵壁は鐵砧のやうな大音響をたてた。血ににじんだ彼の體はその時獸の匂ひを發した。
 深夜巨軀の最後の飛投を終へると彈機で撥ね飛ばされたやうに麥稈の堆へ仰向きにぶつ倒れては又嗚咽しながら氣違ひのやうに激烈な自淫を行ふのであつた。
 隣房の囚人は皆氣が狂つて遠くへ移されてしまつた。
 それで何年も前から彼の周圍、幾百の監房はたゞ蜘蛛が網(す)をはるに任してあつた。
 朝になると高い處にある、鐵柵のはまつた小さな牕から疲れて睡つた彼の顔へ朝陽(あさひ)が射し込む。──やがて西の涯へ追ひやられた氣の狂つた囚人共の喚き立つ聲が小さく聞えてくる。昏々と睡つた彼と、追ひやられた多くの囚人共と、そしてこの監獄との間に不氣味な空氣がかくして日ごと日ごと嵩ばつて行く。━━
 この不氣味な空氣の中に毎朝新しい斬首刑吏の靴音が聞えてくる。この眞黑な大男の首を斬るものには二千萬磅の償金が與へられるのである。しかし如何に自分の力に醉ひ痴れた人間(をとこ)でも彼の凶猛な顔を、彼の血潮を以て殷黑(あかぐろ)く風味づけられた鐵壁を前に見ては戰慄して畏れ縮(ちぢ)かんで逃げうせた。
 ある夕、鋸で腹を挽かれ、足を鍬で犁かれてゐる死刑囚の斷末の呻きが遠くからほそぼそと聞えてくる時、彼は何時ものやうに出口を捜(もと)め乍ら咆哮してゐると、突然、鐵柵の塡つた小さな牕から暗い監房へ一條の赤光がさつとさしこんだ。それは光ではない!!何萬何億とも知れぬ小さなあかこが一面に光の中を空氣の中を泳ぎこんで來たのだ。
 彼の全身は爆發するほど激怒した。怒りに震ひながら口をかツとあけて、あかこの光を飲み込まうとした。刹那!彼の體は强直した。口をがあつと開けた儘、──振り上げた兩腕は蟹の蟄(つめ)のやうに硬くなつて──胸は襲ひかゝるゴリラの様に反り返つて──毛だらけの眞黑な全身はわら床から斜めに小さな牕へ、空中を、その赤光に沿うて引き上げられた。そして(それぞただ神のみ知る)この鐵柵のある小牕から外へ彼は投げ落されたのである。

 はつと我に歸つた彼はまつしぐらにましらのやうに高い石の壁を駛け上つた。
 下には壁に接して一臺の眞赤な貨物自動車がおいてあつた。一人の憲兵がハンドルの側でまどろんでゐた。飛び下りるや否や憲兵を鷲捉みにして石壁へ叩きつけた。憲兵は白い石の壁へ柘榴のやうに爆(はじ)けついた。

 前方には光を吸ひ込んでしまつたやうな眞黑な倉庫が立ち竝んでゐた。その倉庫の間には炳炳(ぎらぎら)するほど眞靑な海が見えてゐた。そこへ彼は恐ろしい唸りを上げて恐ろしい速力で自動車を飛ばした。
 二十年間無駄に見張つてゐた、高搭上の老いたる番人は忽ち警鐘を亂打した。
 監獄の門は直ちに開かれて二人の警官が自動車に乗つて彼を追撃して來た。
 あはや自動車は倉庫に衝突しようとした時急𢌞轉して左の路次へ逃げ込んだ。やつぱり眞黑な倉庫の列んだ海岸通りだ。
 警官は短銃を亂射した。ために眞赤な自動車はパンクしてしまつた。倉庫に挾まつたカフエの前だ。自動車からそこへ彼は虎のやうに身を躍らした。
 テエブルや椅子は粉微塵になつた。多くの男女は悲鳴を上げて逃げ惑つた。
 いきなり彼は──(無髯の伊達者時代、彼の行き狃(な)れたカフエだ)コツク室へ躍り込むと驚くコツクを鐵鍋で毆り倒して下水の蓋を引き上げ、そこへ飛び込んでしまつた。
 追撃して來た警官は蓋を滅茶苦茶に蹴つて「開けろ、開けろ!」と怒鳴つた。「開けないと錠をおろすぞ!」
 彼は忿怒した。「よおし!!こつちからも錠をかけてやらあ──」
 上と下から同時に錠は鎻(か)けられた。

 ──うしろに直ぐ海がある家に特有の下水道で他家(よそ)の下水口と連つてはゐない。逃口はたゞ海へ一つである。然し海上には旣に多くの警官が見張つてゐる。彼は海草の生へた靑い石段に腰を下して夜になるのを待つた。──

 !!夜になつた。
 眞赤な、血のやうな月が、血の雫を滴たらし乍らガクガクと音を立てゝ登つた。
 恐ろしい滿潮だ。
 海水は下水道に溢れ漲つて來た。その水は月の光で蒼かつた。小さな美しい黝い偏片魚(ひらうを)がたくさんその中を游いでゐた。空腹になつた彼は月光を攪き分けて、それを捕へては喰べた。──

 ……月影に靑い水は益々流れ込んだ。
 彼は一匹の眞赤な大章魚になつてゐた。

  

海生動物2へ続く

 

『文藝時代』大正15年(1926年)8月(今回のテクストは日本近代文学館による1967年5月復刻版)

 

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