廣江ミチ子 Ⅲ(新庄祐子名義)  (モダニズム短歌)

 

        火山

・霧すくなく立つ かたむけよと我がてのひらをかへす めざめてあればまなかひにくもる歌よ

・入江ある島にすむわづかなる作法にいたいたしいまひるの朗誦の吃音である

・麻の袋 その低いトオン 老いたソリジア 濱名湖の靑い寫眞がうつる

・人工の印象 續いてかく ああ私の過酷な歳月 大きな嘴を砂につきさして答へた

・林檎の樹を尋ねず 酬いず この源泉といふ巷のひとなる

・秋に死ぬ ペルセフオネの町よ 藁の都 靑空の日ありき 師の旗

・キイの形態である 擾亂する わが講座 盲ひた

・もゆる風の帶 救ひのちまた 我が行為の布告のためにナルシスの鏡還る

・地の歸國を信じたい 一なるやかた 地の鹽に再びのせよ林檎を

・冬への欲求は終るかもしれぬ 習作ゆゑ よまれよ 汚泥にみちてある一篇の向日葵の中に


『新短歌 年刊歌集 1938年』より

 

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神山裕一   (モダニズム短歌)

 

 

・帆柱の四五本が搖るる月夜空しろく羽ばたきて過ぐるものあり

・人或は眺めやるべし海原に夜ふけて赤く月ぞ照らせる

・夜はふけてやどかりうごく磯の岩娼家のあかりおよび來らず

・磯の空ときにひるがへる蝙蝠(かはほり)は月夜さやけみよく遊ぶらし

・部屋の灯もしろじろとふけぬ緣の下の蟋蟀のこゑを聞かされてゐる

・秋の蚊をたまさかは手にはたき落とし何も考えぬ夜がふけてゐつ

・匂ひなき枯木の肌や落葉焚くけむりまつはれり朝は幽かに

・庭木の梢(うれ)あらはに空をさすところ日のくれの風はくろくよどめり

・この朝は遠山に雪の光りしか時雨の街をゆきつつおもふ

・庭闇のかそけき雨をうちまもりこたへなき子の肩息づけり

・あたたかき冬の日つづくあぢきなさ白けし街の石だたみ踏む

・小驛のをぐらき燈(あかり)はや過ぎてなほこころひくくらきその驛  
     (夜の急行列車)

・枯原に夕かげ黄なりひそやかに卵うみをへし蟲は死ぬらむ

・杉木群立ちしづかなる山のなかに流るる水のありて音すも

・この山に音する水のながれゆくはてをおもへば國はひろしも

・冬眠りひそけきもののかくろへる野にしみわたりけさの雨ふる

・雲のかげをりをりすぐる枯野原日は照りながら時の空しさ

・夕空を枯野へ落ちし鳥のかげのきびしき線ぞ眼には殘れる

・筑紫の友死にし報せの來しときをわがむさぼりて飯(いひ)は食みゐつ

・疊這ふ夜蜘蛛をとらへ火に燒けりいのち絕えしものの臭くにほふも

・街路樹に音なくそそぐ夕しぐれ華やかにさむき燈もともりたり

・夕早く病院の窓にともる燈のまだ白々し街の寒けさ

・屋上に昇り來しとき日は照れりしまらくはわがひとりしあゆめる

・ふてぶてしく心のなかに居直りて生きむおもひもかつは寂しき

・一すぢに立ちくるこころ何にかけ生きむとするかただに迷へる

・山房の庭ひるしづかなり百日紅の花のひまより雲ひかり見ゆ

・俵負ひ登り來し人は地虫鳴く庭の夕をしづかにいこふ

・谷越えし向ふの山に猿のごとき啼きごゑせしか木木のしづけさ

・山の子が竹鐵砲をならす音木の間にひびき暮れゆかむとす

・山房の大き屋根くらく空を截り夕ほのかに雲流れゆく

・山に住む人らしづけし木木の間におもく沈みて藁屋暮れたる

・日はくれていづみに釜をあらふ音この山ふかく人の住むあり

・はるかなる山また山はくれそめぬここに生きゆく人らしづけき

・闇ふかく流るる渓の音澄めり落ちつぎにつついづちゆくらむ

・天地はくれしづみたり山深くまれに人間の笑ふは何ぞ

・山寺のラムプ小暗くもるる庭わづかに白し二もとの杉

 

 

 改造社版『新萬葉集』『香蘭選集』より

 

 

 

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春日 衣巻省三  (稲垣足穂の周辺)

 

    春日
          衣巻省三

猫と一室に戯れつくしても暮れなかつた
もう殺すよりほかない!
首をしめ終へると日はやつとくれた
死んだ猫はピクピク手を動かすのを止めない
春日は夜の中に僅かに生き殘つて手を動かしてゐる

     空腹

初めお腹の中に虹がたつてゐる──あした天氣になあれ
──やがてその空が暮れゆくと蛭が這ひ出してきた

 

    デメキン

  夜のレデイは、いづれも金魚のやうに生臭い。出目金(デメキン)が、どつかで近づきになつた女を思ひ出させた。

     美しい時代

  頂上は寳石のやうに輝いてゐた。もうそこは手がとゞきさうに近かつた。
 君は空からやつてきたのだつた。僕の額をふみながら。
 そこで君のあみあげの靴に挨拶をすると、目を鈴やかにして落ちて行つた。止まりたかつたのだが………。
 君は水晶のうつり香をもつた少年だつた。
 はるかの下で、君はいつまでも手をふつてゐた。
 ひと束の菫の花の湖と、空色のシヤボン玉の煙をたてたゼンマイ仕掛けの汽車と。
 君はそれらと共に消えた。僕はさびしく暮れのこる。
 僕たちは美しい世界に住んでゐた。

 

 

 

 『FANTASIA』第3輯 昭和5年(1930年)6月号

 

 

 衣巻省三 グウルモンにささぐ
衣巻省三 毀れた街

 

 

 稲垣足穂の周辺 目次

毀れた街 衣巻省三  (稲垣足穂の周辺)

 

稲垣足穂と共に、佐藤春夫のところへ出入りしていた衣巻省三の詩です。

 

毀れた街

           衣巻省三
    小 鳥


胸の中に豆電氣がともつてゐる


    航 海


魚となつててのひらよ、艶やかな襟首の流れを下り、たぐひまれな
彼女の入江にまで、春日遲々とたゞよひゆかん。


    毀れた街


崩れた階段を薔薇が一輪をちて行く
蜥蜴めがアスフアルトの頗にのがれた

港の街のまひるどき
ボーツと汽笛が鳴る

 

    アイスクリーム


私の戀人よ
あまりながくほつておくとお行儀が惡くなる

 

    競 爭


言つてしまはぬうちにうなづいてしまふのです。で僕は終りに至つ
てその話の方向を換へて立ち上つた。それより早く、O君はシガー
の心までジイと吸ふてぽいとすてるともう歸るのかいと言ひました。

 

    


水泡を食べてゐる鮎よ
高貴なる藝術作品よ
夢を食べてる僕よ
君等風雅な食膳に上るのだが
實用品ではありません
何と世に俗な口の多い事だ

 

    宮庭のラツパ


シウル・レアリズム
プライドそれみずからの藝術

 

 

『FANTASIA』第2輯 昭和4年(1929年)12月号

 

 

 衣巻省三 グウルモンにささぐ
衣巻省三 春日

 

 

稲垣足穂の周辺 目次

 

 

ノック・バツト型「のぞき器械」 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 
見たところ野球用のバツトであるが、提げてみるとノツク・バツトよりもいつそう輕いから携帶には至つて便利なしろものである。實際は樫の棒に似せたボール紙の細工物であつて、その中腹から左右に一本づゝ都合(あはせて)二本のゴム管が垂れさがり、又、その内部の洞穴(ほらあな)には多くの操人形(あやつりにんぎよう)と數種の豆樂器との仕掛けが巧妙にほどこされてある。能書(のうがき)に示された活字に依ると、先づ左の手でバツトの中心とおぼしいあたりを握つて空中に支へ、次ぎに二本のゴム管のはしを醫者の聽診器のやうな具合に兩の耳の中へあてがひ、望遠鏡で天體を究めるまねをして此のバツトの内部を細い方から覗き込めばいいのだが、それと同時に右の手でハンドル(附屬品)をバツトの横に穿たれてある小さい穴にさし込んでカラカラと廻すことをも是非わすれてはいけない、と、これが使用法のあらましである。さてハンドルの廻轉と共にどんな光景がバツトの内部に覗かれるかといふに、例へばバツトの外側に「雪の護持院ヶ原」としるされてあるとすればこれは日活映畵「修羅八荒」の一節であつて、白雪皚々の二番原三番原を見はるかす極めてぞんざいなセツトが御城の高石垣の書割をもそなへて、レンズの作用で思ひのほかひろびろと御貴殿(あなたさま)の視界に展開されることに相違ない。そして其處には十數個の小指大の人形が忍びの覆面黑裝束でめいめい蟲針(むしばり)を白刄になぞらへて振りかざし、ひョこりひョこりと間斷なくおじぎの交換をくりかへしながら眞綿の積雪の上をどうどう巡(めぐ)りしてゐるに過ぎない。おじぎと共に手にしてゐる蟲針がせわしく上下に動くのであるが、つまりこれが亂刀飛雪護持院ヶ原の寒けき殺陣を模した演出である。中央にわだかまつて多勢の頭巾黄裝束にかこまれ獨樂(こま)のやうにクルリクルリと旋囘してゐる人形が五分月代に大髻といふ風體(つくり)から察して主役河部五郎の扮する殘香惠之介であるらしく、群を離れてぢツと兩腕をこまねいてゐるのが近頃物騒至極の神道無念流の先生陣場彌十郎、彼方の松の樹かげから三味線をかゝへた上半身をのぞかせてと見こう見してゐる鳥追ひ姿こそヒロイン江戸節お駒かと思はれる。いつ果てるともなく無變化無勝負のチヤンバラをつゞける操人形のあつけなさはさることながら、ハンドルをまわすにつれて二本のゴム管の中を通過して御貴殿(あなたさま)の耳へさゝやく此の立ち廻り劇の伴奏樂(ヂンタ)のあほらしさにはまた格別の趣きがないでもない。チンチキトントンチントントン、チントコチントコチントコトコ、卽ちひろめ屋のマーチであるが、これは二本のゴム管によつてのみ御貴殿(あなたさま)の耳へ運ばれるこそばゆいほどに極くかすかな演奏であるから、或ひはチンチキトントンと鳴く蟲がこのボール紙製バツトのなかに秘密に飼つてあつて、數日後には蟲が空腹のために死亡してしまひ再び伴奏樂(ヂンタ)を聞けないこととなるのではあるまいか、などと一應は不審を抱いてみるが當然であらう。だがこれこそ數種の豆樂器の必死の活動(はたらき)によつて釀されるシンフオニーであると心得て置くがいゝ。

最近に新宿驛前の緣日を歩いた人はこのノツク・バツト型「のぞき器械」を賣つてゐるもう六十に近いきさくで漂逸な爺さんを眼に止めたであらうが、頭がつるりと禿げおはせ頰鬚とあご髯とをきれいに剃り落した𤏐徳利型(かんどくりがた)の面相が鉈豆煙管(なたまめぎせる)をパクリとくわえてめくら縞の着物のゑりにさゝつてゐるありさまを見るにつけても、この人こそこの未來派的舊式玩具を賣るためにのみ生れて來たことに相違ない、などと私の如き劒劇フアンがつい懷しさに涙ぐましくなつてしまふ。
「おい、爺さん、阪妻はあるかい。阪妻は。」
「オーライ、無明地獄に人形師、えーとそれから幕末、亂鬪の巷、毒笑、こゝンとこのが素浪人。」
「多味太郎の千葉周作はどうだ。」
「あツ、旦那、そいつを未だ封切らねぇンで……。」
當分のうち宣傳のために破格大安賣りの一本二十錢のところを更に十二本揃へて一ダース一圓といふ徳川な買ひ方があり、場所は新宿驛前の戸塚停留所に寄つた大道であるから、若し御貴殿(あなたさま)が武蔵野館のくらやみの中で西洋映畵の石鹼の泡に食傷したなら、毒消しとして、又、寢ながら樂しむために二三本なり一ダースなりを求めるといゝ。(完)

 

 

 補遺──仔細に檢査してみると、バツトの腹に針の溝ほどの小穴が無數に穿たれてあるが、これは筒の内部の闇を照らすためのあかり取りの窓である。特製品といふのがある、一本七十錢、但し、これにはあかり取りの窓が穿たれてない、といふてもカラカラとハンドルを廻すと同時に内部に豆デンキがともるやうに裝置してあるから、それには及ばぬのである、尤も別に電池を求める必要があるけれど……。いろとりどりの色紙細工が豆デンキの光を浴びるから、興味深い照明作用をうかゞふことが出來る。消燈した寢室のくらやみで弄ぶに適當であるが、爺さんの店にはいつも二三本しか用意されてない。そして、この方は一向に賣れ行きがないさうだから、値切れば三四十錢にまけぬとも限るまい。又、もとより玩具ではあるが、野球選手がサツクの中へ實用のバツトと共にこのノツク・バツト型のぞき器械を忍ばせて出場し、自分の打撃順を待つてゐる暇に時々ハンドルを廻してみるのも乙であらう。

 

 

 

 第九次『新思潮』22号 昭和2年(1927年)2月

 

 

 丸山清 秋と病める少年
丸山清 鷹
丸山清 不幸な鴉の話 1

 

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稲垣足穂の周辺 目次

 

 

秋と病める少年 丸山清  (稲垣足穂の周辺)

 

 俊一郎は岬の突端に建てられた赤い屋根の家で、哀れにも夢み勝ちな腹膜炎を患ひつゞけてゐたのです。そしてそのゆへに此の不幸な少年の心の悲しみは、もう長い年月、水色でありました。病室の窓のほとりに其の涯は空の極みと相寄る海を眺めながら、早く秋が來ればいゝのにと、俊一郎は恰も未知の戀人をでも待つかの如くでありました。──秋になると水中の海草と雖も亦紅葉するものかしら──。すると一夜、物凄い颱風が彼の住む岬の突端へ襲來したのです。恐ろしい風雨の叫びと浪の轟きとに心をふるはせながらも、これは秋の來る前觸れなのだと夜どほしまんじりともせずに其の夜が果して自分の願ふやうに爽々として秋らしく明け放たれるのを待ち兼ねてをりました。そして明け方近くあたりが稍鎭つた頃に、うとうととして眠りといふ悲しい淵へ底深く身をも心をも沈めてしまつたのです。
 ──島が流れる、島が流れる──人々の斯うした奇異な呼び聲に俊一郎の夢は破られました。──お母さん島が流れるのですつて?──母親と二人の召使達とは俊一郎が未だ眼を覺さないうちから窓のところ集つて海の方角を指さしてゐたのです。それは昨夜の暴風雨に吹きちぎられたいづこかのかずかずの小さい島々が海流に乗せられて行衞も知られず押流されてゆくといふ不思議な出來事でありました。そして又、すでに人の世が靜澄な秋の朝であつたことは俊一郎の昨夜の想像の如くでありました。
 藻屑のおびたゞしく打ちあげられた波打際に集つた大勢の村人達は口々に聲高く──島が流れる、島が流れる──と呼び交はして、秋の最初の朝、俊一郎の夢をも搖り覺ましたのです。母親に手傳つて貰つて漸く床を離れた彼は、窓のほとりの籐椅子に腰をおろして一わたり海の上を眺めわたしました。或る三角形の島は埃及のピラミツトに似てをり、又駱駝の背に似た二つの瘤を持つ奇妙な島もあつたのです。月のやうにまんまるい島、星のやうに尖つた島、それ等の島々は雁行してあとからあとからと無數に俊一郎の眼の前を流れ過ぎてゆきました。

 ──お母さん、今日は海の水がまるで河のやうに早く北から南へ流れてゆくのですね──。さうね、妾も先程からそれを不思議に思つてをりました──。又、岸邊で今日の出來事に關して村人達の取り交はす様々な會話をも手に取る如くはつきりと耳にすることが出來ました。年老いた第一の漁夫は言ひました。あれ等の島々は彼れ自身もつと若つた日に捕鯨船に乗つて眺めたことのある千島列島に違ひない、と。すると年老いた第二の物識が此の説に返對したのです。千島列島の島々があのやうに小さい筈はない、あれ等の島々はきつと陸前の松島の附近に在つたものに違ひない、と其の老人は言ひました。
 まことに今こそそれ等の島々に住む人々も其の家も見當りませんでしたが、それは恐らく昨夜吹きあれた颱風の際に怒濤のために洗ひ去られてしまったのではなかつたでしやうか。
    +   +   +   +
 物ごとに倦き易い人々は斯うした珍らかな出來事にまもなく退屈を感じたものらしく一人去り二人去り、やがて岸邊には獨り物靜かな秋の日が傾てゐたのです。しかしながら俊一郎は猶ほも窓のほとりの籐椅子に腰をおろしたまゝ、流れてゆく島々の行列を眺めつくしてをりました。するといよいよ黄昏の時刻が迫つて來て、今將に水平線に沈まうとする太陽は其の朱の豪華な姿をば三倍ほどにも大きくしたのです。そして岬の突端からちやうど其の太陽が沈まうとするほとりへかけて、流れてゆく島々は恰も庭におかれたかずかずの飛石の如く行儀よく並んで動いてゆきました。又、それ等の島々は赫灼とした太陽の光線を浴びて恰も皆一勢に火炎をおこしたものの如く、──あゝ美しいな──と病弱な俊一郎も思はず感嘆の聲を洩らしたほどであつたのです。さて、其ののちどれ程の時刻を經てからであつたか、ふと彼が我れにかへつた時に、まアどうであつたでありましやう。今の今まで彼自身が眺めてゐた其處に沈まうとする眞紅の太陽は、いつのまにやら今將に其處から中天へ登ろうとするそれこそ萎れた花のやうに色蒼ざめた滿月であつたではありませんか。もちろん、あたりもすでに仄暗く空にはまばらな星屑さへも瞬き始めてをりました。そして此の時、その蒼ざめた滿月の紫の光は、かずかずの島々の上を恰も物哀しい笛の音の如く流れ渡つて、或る怪しい言葉を俊一郎の心に傳へたのではなかつたでしやうか。
    +  +  +  +
 或る夜、俊一郎は彼の住む岬が陸から離れて海の沖へ流れ出した夢をも見たのでした。そして數ヶ月ののちに、彼は病氣が急に重くなつて此の世を去つてゆきました。

 

 

第九次『新思潮』9号 大正14年(1925年)10月

 

 

丸山清 鷹
丸山清 ノツク・バツト型「のぞき器械」
丸山清 不幸な鴉の話 1

 

 

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田中武彦  (モダニズム短歌)

 

・いちども冠(き)せぬベレツトといふ帽子それも柩(ひつぎ)に入れてやりたり 

・樂しげに落語聞きをるこの男がつねにイデオロギイを口にする男か

・夕明(あか)る海を見おろし見おろして居留地街にのぼり來れり

・羅馬のコルシアムを思はす街を歩み蔦におほはれし窓をわれ見き

・冷えびえしき聖堂の奥やうやく暗くマリア、ヨゼフの光背(ごかう)のみ見ゆ

・ステンドグラスの高窓ありて夕日光あはく透りをり隈にはとどかず

・聖堂を出でてあかるし足もとの冬草なかに蒲公英咲けり

・聖堂を出でて間もなきわが後(あと)よりオルガンのおと堂よりひびく

・通詞(つうじ)屋敷蘭人屋敷と見つつ來て花園見たり甲比丹(かぴたん)の花園

・ベランダに遊女いでてをり阿蘭陀船いまゆるゆると入りくるところ

・井戸のべに臘梅ふふむシイボルトの荒れし家址いまだものこる

・アフリカの荒き廣野を知らずして檻の日向に仔獅子遊べる

・ここにして見ゆるインクライン眼の下にロオプ光りて舟のぼりをり

・ゆうかりの高枝にしげき蟬のこゑ再び暑さ至りつるかも

・松の群(むら)すかしてテニスコオト見ゆ女學生ら涼しく試合始めをり

・さやらぎてこぼるる鳳仙花の實を髣髴す頰紅き少女らの愉快なる笑ひ

・ゆうかりの大樹の梢(うれ)のゆれなびきさむざむとして夕ぐれにけり

・目に見えて霧の流るる夜はさむし自動車(くるま)のうちに身をうづめたり

・窓外にけふの一日も昏れゆきぬまたゆうかりが搖れてゐるなり

・さ夜更けて妻は眠りぬ家近く夜間飛行機の音きこえ來て過ぎぬ

・小やみなきジヤズのレコオド病院の竝びの端(はし)のカフエよりか

・二月とも思へぬ溫(ぬく)さ窓(と)の外のテニスの音を妻も聞くらむ

・ここをいでむ相談に今朝は朗かなりシクラメンの鉢はもちて歸らむ

・高塀に沿ひてひた走り來し自動車(くるま)大き曲(カアブ)なし門前にとまる              (刑務所)

・向きあひて囚人ふたり手も休めず鳩の玩具にペンキ塗りゐる        (刑務所)

花麒麟の鉢花ひらくこの緣に三月らしき風の吹きよる

・原始林の暗きつめたさ感じをれり奈良の町近き山とも思へず

・新國道の坂のうへよりロオラ・スケエトの童(わらべ)二三人滑りてくるも

・のぞき見る洋風庭園の芝のうへ人をらずして球を打つ音

・電車より見おろしてゆくインクラインに夕靄たちて一列の鐵の輪

都ホテルの屋上に出でてこの晴れし夜空のもとの大き町を見る

・まれにゆく馬車に流るる夜の雨やうやく更けし哈爾濱のまちを

・中央寺院(サポール)の塔のみどりの濡れいろのもうあたたかき晝の雨なる

・圓屋根を二つならべて空のもと猶太(ユダヤ)の寺かどつしりと大きく

・つづけさまに彈丸(たま)はうちたれ銃身の灼けて曲りて陽炎だつを

・高臺も道路もなべて黄いろなる若芽の街なり海へ傾斜す

・春すでに芽ばえ黄いろきいちめんの明るきままの原に日は果つ

・大陸に一つの沼が湛へ居り刻(とき)を忘れしごとくしづかに

・水盤の金魚あふむけに浮べるなべ靑き婦人服には吹く風もなき

・もはやしづかに月のぼり居り磨かれて靑く輝く硝子窓より

・うつくしき少女をならべ清(すが)しき行(ぎやう)おこなふ如く林檎など配(くば)る

・オカリナは叫ぶが如く鳴り出づれ狭しと思ふ街の口より

・空の雲流れつつあり晴ればれとわれは切子(きりこ)の皿みがき出す

・蜜蜂は巢箱のくちに集りて花園はけふも氣まぐれの雨

・砂原はおのれ容(かたち)を夜毎に變へ沼なる如く朝をしづもる

・馬糧供給終りて歸るトラックのうへ旣に日暮れて月の光(かげ)さす

・己(し)が影を金にかへたる人のうへつくりごととは思はれぬなり  (プラーグ大學生)

・罌粟のはな濱いちめんに照り映えて海は濱よりはるかに高し

・靑空は低く傾き野はすでに眞白き蝶の生(あ)れそむる頃

・神々の危ふき性(さが)を咎むれど風やはらかく草にそよぐを

・大砲の筒(つつ)がまぶしき春となり神馬(しんめ)は白くきれいな毛竝

・とよみ來(く)る朝方にしてまどろみぬ常のことなれば美(うま)し夢も見ず

・かすみつつ黄に墜(お)つる日を背のびして遠望み居りわがいのちとも

・うつせみの疲れ兆(きざ)しくるいとふべくは夏斷(けだち)のこころはや頻りなる

・たちまちに春は來(きた)るとあわただしく明るき雨の宵(よ)ごと降りつつ

・法則はただしく季節(とき)を刻(きざ)むゆゑ痴愚なるわれのひとしほ汗ばむ

・モルモツトなど他愛なく殺しそのあとは眞顔になりてものを食ひはじむ

・砂時計の硝子に映(うつ)る秋雲の速き動きのまたなくやさし

・秋ふかき空に見たるはにぎやかに一方の隅を指してゆく鳥

・すみずみまでまことに靑き空を入れ幸(さち)呼ばふごと菊ひらきたり

・黄昏のいろ消えしかば庭の池靑く濁りてわがまへにあり

・高くゐて安(しづか)に翔(かけ)る鳥あれば天の蒼さがわが肌膚(はだえ)刺す

・暗き夜となる氣配にて二つ三つ椿のはなが地(つち)に落ちたり

・靑淵はなほ冬のいろを湛へつつまことに白き花浮かべたる

・瑟として風の音に鳴りいくばくもなく昏(く)れ入りし空が璧玉(たま)の如くあり

・風に偃(ふ)す低木のありて谷あひのあるところは空が瑠璃ふかく澄む

・近づきてその靴音がこの室(へや)の扉(と)の外に來てまた停(と)まるなり

・眠らざるこの夜半に見て月光が妖(あや)にまぶしく室(へや)にさし居り

・けだもののむくろは骨もあらはにてすでにむらがる蠅だにもなし

・かがやかぬその夜の月を怪しみて陷穽(おとしあな)には花敷きしとぞ

・夜となれば靑き焰の立つといはばまぼろしめけど肉の厚き花

・遠ぞらを群鳥(むらどり)の行くかげ白くしばし電車の窓に映れり

・丹椿(につばき)の花にあゆみをとどめ居り結界を出(いで)ぬ僧の如くに

・掌(て)にのせて椿の花の赤きころ晴れ澄める日のやや傾きぬ

・月夜となり冷えいちじるし庭檜葉の光こまかに搖れてゐるなり

・夢に似て山に日の照るきのふけふ水は激しくしぶきをあげつ

・枝重くくれなゐの花ひとつ咲き又ひとつ咲く暖かき國

・瑠璃色の珠(たま)なす草の影うつし一夜(ひとよ)の雨は土(つち)にたまれり

・小山なす砂丘のかなた海ありと思はば何か迫りくるもの

・大木のいてふもみぢば空に鳴り輝きて散れり風吹くたびに

・濱には霧いまだ殘れり午前十時の光ながるるこすもすの花に

・雨になる氣配の中に羽搏ける鳥かと思ふ近き物音

・うしろなる灰色の虹も刃の如く心つめたくなりてゐたれば

・山風はかくし自由に振舞へばげに壯觀なり樹々の彈力

・戞々(かつかつ)と歩めば遠き突堤(とつてい)のかげさへあらぬ石疊のうへ

・おとろへのしるきは言はね消えゆきて瞼(まぶた)に殘るいくつもの虹

・いつの代ともわかぬ月日の經(た)ちやすしひと山かけて雪つもる頃

・あたたかく雪は林檎に降り來(きた)る幸福の香(か)の漂(ただよ)ふばかり

・靄はれて驚くばかり峽(かひ)ふかし藍をたたへて水おと無きを

・雪割りていちはやく瑠璃の花咲けばしらじらしい嘘(うそ)をまた聞いてゐる

・神々の樂(がく)鳴りそめて清(さや)けきにまだ椿などはどこにも咲かぬ

・靑空は低く傾き野はすでに眞白き蝶の生(あ)れそむる頃

・山にして何いぶかしむいくたびか鳥など行けば空にも路(みち)あり

・蕎麥のはな明るく咲けり混沌と蘇(よみが)へりくる記憶のうちに

・眞晝間の野はひそけくてわが視野に入りくる花がやさしかりけり

・夜の底に音を激しく雨降れり人の怒りはわれにかかはる

・言絕えて歩みつづくる山のなか近き木立に鶯啼くも

・おそろしき手觸りにさへ冷えびえと火を翳(かざ)したる古き燭臺

・くれなゐに濡れ伏す花をつねになきかなしきものと見るやこの雨

・さむざむとさ霧の底に立ち竦(すく)みその葉を鳴らす灌木の群

 

歌集『暦日』『瑠璃』より

 

 


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